聖書の教える救い
はじめに
「私たちはキリストを信じるだけで、神の裁きから救われる。その救いが取り消されることはない」
これは神学の初歩の初歩です。
聖書の教える救いも、これと同じでしょうか。
慎重に確認してみましょう。
何から救われるのか
まず、私たちが何から救われると聖書が教えているのかを見てみましょう。
「罪から」です。
神学が「裁きからの救い」を教えるのに対し、
聖書は「罪からの救い」を教えます。
このように、聖書の教える救いとは、この世の支配者サタンのもとで罪を犯していた私たちが、その闇の力から救い出されて、神の支配に入るというものです。
これが聖書の教える救いであり、癒やしです。
こうして、私たちは罪を離れ、義に生きるようになるのです。
じつにそのためにキリストは死なれたのだと聖書は教えます。
なぜ「罪からの救い」を教えないのか
聖書の教える救いは、「罪からの救い」です。
罪から救われた結果、生き方が変わり、私たちは裁きを免れるのです。
大切なのは、「行い」が変わっているかどうかです。
神学のいう「裁きからの救い」は、この結果に過ぎません。
「義とされている」からこそ、神の怒りから救われるのです。
ところで、あなたは本当に義とされていますか?
義を行っていないなら、「罪からの救い」を受け取っていません。
「罪からの救い」を受け取っていなければ、「裁きからの救い」もありません。
それなのになぜ、神学は「罪からの救い」を教えないのでしょうか。
一体なぜ、義を行わない者でも裁きを免れるかのように教えるのでしょうか。
それは、「信じるだけ」という人間の作り出した教理を握りしめているからです。
「信じるだけ」という教理
覚えてください。
聖書は、「信じるだけ」とは教えてはいません。「信じる者」が救われるのです。
これは大きな違いです。
「信じる者」とは、キリストという医者を信じて、その忠告にどこまでも従う人のことです。
一方「信じるだけ」という教理に、従順はありません。
彼らは次のような聖句を曲解しているのです。
注意してください。
パウロは「人が義とされるのは律法の行いによるのではない」と言っているのであって、「行いが必要ない」と言っているのではありません。
事実、私たちが罪を離れ、義に生きるようになったのは、律法を行ったからではありません。先ほども確認したように、キリストが十字架で死なれたからです。
この救いを受け取ったかどうかは、行いによってわかります。私たちが義に生きているかどうかでわかるのです。
行いがないなら、その人は救いを受け取っておらず、魂は死んだままであることを覚えてください。
神の民となる方法
今日、本当の救いを得てください。
聖書の教える救いとは、「罪からの救い」です。私たちが悪の支配から逃れ、神の支配に移ることなのです。
これが私たちの戦いです。「誰の支配に入るか」という戦いなのです。
では具体的に、どうやったら神の支配に移ることができるのでしょうか。
主は次のように言われました。
ここで「契約を守るならば」とありますが、その契約とは何でしょう。
十戒です。これを守るならば、神の民となる、それが旧約です。
しかし、この古い契約には欠けがありました。
その欠けとは、民の側に十戒を守る力がないというものでした。
それで主は、新しい契約をお与えになったのです。
これが新約です。
この契約は、私たちが契約に留まれるように、十戒を心の板に書きつけ、守る力を与えようというものです。
つまり、旧約と新約、どちらも十戒を中心とした契約なのです。
このことを、牧師や神学者は無視していないでしょうか。
今、聖書に目を向けてください。
新約とは、決して律法を無効にするものではなく、旧約の欠けを補強し、十戒を守れるようにするもの、すなわち、義を行えるようにするものだったのです。
新約を受けることで、私たちは「罪からの救い」を得るのです。
このことを信じますか?
信じる人は、誰でもこの約束を受け取れます。神の一方的な恵みによって、価なしに受け取れるのです。
そのことをパウロは「律法の行いによるのではなく、信仰による」と書いているのです。
神の民となることを拒む人々
こんなにもすばらしい神の恵みを、頑に拒むクリスチャンが大勢います。
「信じるだけ」
「行いは関係ない」
「十戒は終わった」
「教会は神の民ではない」
そのような神学を、聖書よりも上に置いているからです。
あなたはどうでしょう。
牧師や神学者の言葉を、聖書よりも上に置いていませんか?
自分を低くして、幼子のようになるのは、今です。
「誰の支配に入るか」それが私たちの戦いであることを忘れないでください。
おわりに
「キリストを信じるだけで、神の裁きから救われる。その救いが取り消されることはない」
確かに、これは神学の初歩の初歩です。
けれど、その初歩の初歩から、私たちは間違っていたのです。
今こそ立ち上がりましょう。
もう、そこから立ち直って、聖書の教えに歩む人々が増えています。
このブログを信じる必要はありません。
聖書の教えを信じてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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