見出し画像

バビロンから出ておいで

はじめに

聖書には「バビロンから出ておいで」というメッセージがあります。

イザヤ書
48:20 あなたがたはバビロンから出、カルデヤからのがれよ。喜びの声をもってこれをのべ聞かせ、地の果にまで語り伝え、「主はそのしもべヤコブをあがなわれた」と言え。

「バビロンから出て、私の所へおいで」としゅが招いておられるのです。

このことは、黙示録でも繰り返されています。

ヨハネの黙示録
18:4 わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、「わたしの民よ。彼女(大淫婦バビロン)から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ

これは何を意味しているのでしょうか。

ここに、絶対に知っておかなければならない事実があります。
なぜならこれは、私たちにとって、命に関わる呼びかけだからです。

黙示録のバビロン

黙示録に出てくる大淫婦バビロンは、多くの神学者が認めるとおり、背教した教会のことです。

「背教した教会から出て、私の所へおいで」しゅが招いておられるのです。

このことを、イエス様は「山へ逃げよ」と表現なさいました。

マタイの福音書
24:15 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
24:16 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ

かつてエルサレムがローマ軍に取り囲まれたとき、この言葉を思い出して山へ逃げた人がいるという伝承がありますが、預言自体は、大患難のときについて言及されたものです。

マタイの福音書
24:20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。
24:21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである

この大患難は、いつ起こるのでしょうか。
背教した教会から出て山へ逃げるのは、いつでしょうか。

背教

背教はすでに起こっています
それは、ダニエル書や、テサロニケ人への手紙によって確認できます。

ダニエル書
7:25 彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。

テサロニケ人への手紙 第二
2:3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない

これらの預言は実現しました。

ダニエル書で預言された第四の獣から生え出る「小さい角」で表現されたとおり、ローマから教皇権(バチカン)が出現し、神の宮である教会に君臨したのです。

また「時と律法とを変えようと望む」と預言されていたとおり、十戒じっかいゆがめられ、第七日目の安息日は、日曜礼拝に変えられました。

大患難

「黙示録には教会が出てこないから、大患難のときに教会はもうない」と豪語する人がいますが、そうではありません

黙示録は、教会を「聖徒」「大淫婦」に分けて書いているのです。

神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持つ人が、聖徒だと教えられています。

ヨハネの黙示録
14:12 ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。

あなたはこれに該当しているでしょうか。

ほとんどのクリスチャンが、ゆがめられた十戒じっかいのために、聖徒となっていません。

かつての私もそうでした。
今や、多くの人が不法を行う者となっており、大淫婦バビロンに所属させられているのです。

滅びに至る門が、かつてないほど大きな口を開けて、人々をみ込んでいる時代です。
飢饉ききんや暴力も確かに大きな苦難ですが、この苦難は、永遠の命を失わせる、目に見えない苦難です。

これを聖書は、「かつてなく今後もないような大きな患難」と呼んでいる可能性はないでしょうか。

マタイの福音書
24:22 もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。

神に従うか、人に従うか

いつの時代も、神に従うか、人に従うかが問われています。

あなたはどちらに従っているでしょうか。
それを確かめる一つの「しるし」が、安息日です。

エゼキエル書
20:20 わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである

殺人や姦淫かんいんを避けるだけでは、どの神に従っているのかわかりません。
安息日遵守だけが、創造主に従っていることの「しるし」となるのです。
道に迷った私たちを、創造主の元へ戻すための、これは道しるべなのです。

あなたの手元に、聖書はありますか?
その聖書に、「安息日を聖別せよ」と書いてありますか?
もちろん、書いてあるはずです。

では、「日曜礼拝を行え」と書いてありますか?
そんなことは、どこにも書かれていません。

これによって、神に従っているか人に従っているかが、はっきりするのです。
そのどちらかを、あなたは「選んでいる」のだと自覚してください。

もし、牧師や兄弟姉妹が、全員、安息日を守り始めたらどうしますか?
あなただけ、たった一人、安息日を無視し続けますか?
皆がやっているので、自分もそうする。それこそが、人に従っている証拠です。

もう、かたくなになってはいけません。
神様の目を欺くことはできないのです。
今、正直になって、しゅと相談してみてください。

山へ逃げよとは?

罪の満ちたソドムから義人ロトを逃がすとき、御使いは言いました。

創世記
19:17 彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。

山へ逃げよ。
それは、滅びる人々から離れ去って、救いに入れということです。

思い出してください。
ソドムの人々は、なぜ滅んだのでしょう。人は、なぜ滅びるのでしょうか。

申命記
28:45 このもろもろののろいが、あなたに臨み、あなたを追い、ついに追いついて、あなたを滅ぼすであろう。これはあなたの神、主の声に聞き従わず、あなたに命じられた戒めと定めとを、あなたが守らなかったからである

神の戒めを守らなかったからです。

クリスチャンは「神の戒めを守らなくてもよくなった」のではありません。

ヨハネの手紙 第一
3:4 すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法(アノミア)である
3:5 あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。
3:6 すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である

「不法(アノミア)」これは、「法に背く」という意味の言葉です。
「法」とは、なんでしょう。
さすがに、日本国憲法でないことはわかると思います。
ここでの「法」とは、神の律法しかありません。

「キリストは、律法違反を取り除くために現れた」
「キリストにある者は、律法違反を犯さない」
そう教えられているのです。

これは教会の教えとぜんぜん違いますね。
それなら、神の教えと、人の教え、どちらに従いますか?

罪からの救い

聖書の教える「救い」とは、「罪からの救い」であることを覚えてください。

「キリストにある者は、律法違反を犯さない」
このことを信じて求める人には、癒やしが与えられます。
すなわち、「罪を離れ、義に生きる力」が与えられるのです。

ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会(別訳より)

じつに、このためにしゅは来てくださったのです。

マタイの福音書
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。

これを知らずして、はたしてクリスチャンと言えるでしょうか。

もう、偽りの教えにだまされてはいけません。
「罪からの救い」これを信じて、受け取る者となりましょう。

おわりに

安息日がゆがめられ、十戒じっかいが曲げられ、そのために救いの意味までもねじ曲げられてしまいました。
もはや、誰も自分をアブラハムの子だとは思わず、神の宮となることも知りません。

そんな暗闇から、脱出するときが来ています。

信仰による者こそアブラハムの子であり、神の安息にあずかる者なのです。その人は心に十戒じっかいが納められ、神の宮となり、聖霊の住まいとなるのです。

「戒めを守らなくても天国へ行けるようになった」のではありません。
「戒めを守るようにされるので、天国へ行ける」のです。

この賜物たまものを、どうして受け取ろうとしないのでしょうか。

現代、多くのクリスチャンが、「罪からの救い」を知らず、それにあずかってもいません。

毒麦が育ち、教会が「大淫婦バビロン」に変わってしまったからです。

思い出してください。
イエス様は、教会がどうなると教えていましたか?

マタイの福音書
13:32 それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。

とは何でしょう。

マルコの福音書
4:4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
(途中省略)
4:15 道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。

とは、御言葉みことばを奪うサタンのことです。
そしてしゅの言われたとおり、今や教会は、鳥どもの巣窟となっています。

ヨハネの黙示録
18:2 彼は力強い声で叫んで言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった

大いなるバビロンは倒れます。その罪にあずからず、災害に巻き込まれないように、そこから出なくてはなりません。

聖書を信じ、神様のもとへ逃れましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)

こちらの記事も参考にどうぞ。