バビロンから出ておいで
はじめに
聖書には「バビロンから出ておいで」というメッセージがあります。
「バビロンから出て、私の所へおいで」と主が招いておられるのです。
このことは、黙示録でも繰り返されています。
これは何を意味しているのでしょうか。
ここに、絶対に知っておかなければならない事実があります。
なぜならこれは、私たちにとって、命に関わる呼びかけだからです。
黙示録のバビロン
黙示録に出てくる大淫婦バビロンは、多くの神学者が認めるとおり、背教した教会のことです。
「背教した教会から出て、私の所へおいで」と主が招いておられるのです。
このことを、イエス様は「山へ逃げよ」と表現なさいました。
かつてエルサレムがローマ軍に取り囲まれたとき、この言葉を思い出して山へ逃げた人がいるという伝承がありますが、預言自体は、大患難のときについて言及されたものです。
この大患難は、いつ起こるのでしょうか。
背教した教会から出て山へ逃げるのは、いつでしょうか。
背教
背教はすでに起こっています。
それは、ダニエル書や、テサロニケ人への手紙によって確認できます。
これらの預言は実現しました。
ダニエル書で預言された第四の獣から生え出る「小さい角」で表現されたとおり、ローマから教皇権(バチカン)が出現し、神の宮である教会に君臨したのです。
また「時と律法とを変えようと望む」と預言されていたとおり、十戒は歪められ、第七日目の安息日は、日曜礼拝に変えられました。
大患難
「黙示録には教会が出てこないから、大患難のときに教会はもうない」と豪語する人がいますが、そうではありません。
黙示録は、教会を「聖徒」と「大淫婦」に分けて書いているのです。
神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持つ人が、聖徒だと教えられています。
あなたはこれに該当しているでしょうか。
ほとんどのクリスチャンが、歪められた十戒のために、聖徒となっていません。
かつての私もそうでした。
今や、多くの人が不法を行う者となっており、大淫婦バビロンに所属させられているのです。
滅びに至る門が、かつてないほど大きな口を開けて、人々を呑み込んでいる時代です。
飢饉や暴力も確かに大きな苦難ですが、この苦難は、永遠の命を失わせる、目に見えない苦難です。
これを聖書は、「かつてなく今後もないような大きな患難」と呼んでいる可能性はないでしょうか。
神に従うか、人に従うか
いつの時代も、神に従うか、人に従うかが問われています。
あなたはどちらに従っているでしょうか。
それを確かめる一つの「しるし」が、安息日です。
殺人や姦淫を避けるだけでは、どの神に従っているのかわかりません。
安息日遵守だけが、創造主に従っていることの「しるし」となるのです。
道に迷った私たちを、創造主の元へ戻すための、これは道しるべなのです。
あなたの手元に、聖書はありますか?
その聖書に、「安息日を聖別せよ」と書いてありますか?
もちろん、書いてあるはずです。
では、「日曜礼拝を行え」と書いてありますか?
そんなことは、どこにも書かれていません。
これによって、神に従っているか、人に従っているかが、はっきりするのです。
そのどちらかを、あなたは「選んでいる」のだと自覚してください。
もし、牧師や兄弟姉妹が、全員、安息日を守り始めたらどうしますか?
あなただけ、たった一人、安息日を無視し続けますか?
皆がやっているので、自分もそうする。それこそが、人に従っている証拠です。
もう、頑になってはいけません。
神様の目を欺くことはできないのです。
今、正直になって、主と相談してみてください。
山へ逃げよとは?
罪の満ちたソドムから義人ロトを逃がすとき、御使いは言いました。
山へ逃げよ。
それは、滅びる人々から離れ去って、救いに入れということです。
思い出してください。
ソドムの人々は、なぜ滅んだのでしょう。人は、なぜ滅びるのでしょうか。
神の戒めを守らなかったからです。
クリスチャンは「神の戒めを守らなくてもよくなった」のではありません。
「不法(アノミア)」これは、「法に背く」という意味の言葉です。
「法」とは、なんでしょう。
さすがに、日本国憲法でないことはわかると思います。
ここでの「法」とは、神の律法しかありません。
「キリストは、律法違反を取り除くために現れた」
「キリストにある者は、律法違反を犯さない」
そう教えられているのです。
これは教会の教えとぜんぜん違いますね。
それなら、神の教えと、人の教え、どちらに従いますか?
罪からの救い
聖書の教える「救い」とは、「罪からの救い」であることを覚えてください。
「キリストにある者は、律法違反を犯さない」
このことを信じて求める人には、癒やしが与えられます。
すなわち、「罪を離れ、義に生きる力」が与えられるのです。
じつに、このために主は来てくださったのです。
これを知らずして、はたしてクリスチャンと言えるでしょうか。
もう、偽りの教えに騙されてはいけません。
「罪からの救い」これを信じて、受け取る者となりましょう。
おわりに
安息日が歪められ、十戒が曲げられ、そのために救いの意味までもねじ曲げられてしまいました。
もはや、誰も自分をアブラハムの子だとは思わず、神の宮となることも知りません。
そんな暗闇から、脱出するときが来ています。
信仰による者こそアブラハムの子であり、神の安息に与る者なのです。その人は心に十戒が納められ、神の宮となり、聖霊の住まいとなるのです。
「戒めを守らなくても天国へ行けるようになった」のではありません。
「戒めを守るようにされるので、天国へ行ける」のです。
この賜物を、どうして受け取ろうとしないのでしょうか。
現代、多くのクリスチャンが、「罪からの救い」を知らず、それに与ってもいません。
毒麦が育ち、教会が「大淫婦バビロン」に変わってしまったからです。
思い出してください。
イエス様は、教会がどうなると教えていましたか?
鳥とは何でしょう。
鳥とは、御言葉を奪うサタンのことです。
そして主の言われたとおり、今や教会は、鳥どもの巣窟となっています。
大いなるバビロンは倒れます。その罪に与らず、災害に巻き込まれないように、そこから出なくてはなりません。
聖書を信じ、神様のもとへ逃れましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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