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Life is good.

わたしはニュージーランドで出産をした。そのとき滞在した婆さんちの台所は、わたしがこれまでみてきた世界中の台所の数々の中でも、悪夢に分類される台所だが、ランドリーには良い風が吹いていた。

欧米が、文句なしにアジアと決定的に違って素晴らしいことのひとつは、乾燥していることにある。それだけ書くと、お肌に悪そうとか別にひとつの気候の特徴に過ぎないのだけれど、水廻りの清潔感という意味では、アジアの気候はほぼ同じ大会には出られないくらいの、オリンピックとパラリンピックくらいに違うハンデなのだ。
わたしは薄汚い中国に住んでいたり、ネズミが家に平気でうろちょろするニューヨークで平気で暮らしていた間すらチャイナタウンに通ってたくらい、そんなに掃除とかに神経質なほうではない。でもヨーロッパやアメリカで長く暮らしてみて、本当にそれは最高なことのひとつに、台所にドメストがなくても匂いが気にならないということがある。

最初はそれは、たんに構造の問題なのかと思っていたけど違う。ニューヨークの人間は基本的に不潔だし、サブウェイの匂いはひどいし、町中にゴミ箱があって、トイレは汚いし、道路にもゴミは落ちている。
でも、もし同じ日本やアジアの気候でそれが同じ条件だとしたら、この国はほぼ中世のフランスで疫病が蔓延してた時代くらいになるとおもう。
ここまで日本が清潔大国なのは、まぎれもなくその蒸し暑い湿気に満ちた気候にあるのだ。

わたしの家にはドメストとパイプユニッシュ的な排水溝の汚れ取りが常備してあって、これだけは、どれだけ環境汚染に加担していたとしてもごめんなさいという他ないくらいに、日本の住居の水回りは匂いががきになる。

普通に掃除をきちんとして生活をしていても、それは不思議とすぐに臭くなり、すくなくとも台湾やら上海で暮らしていた時期、同じ臭いがした。

話がとぶけど、今一応わたしの風呂には石鹸がおいてあって、適当に体を洗う。でもアメリカに住んでいたときに、体を洗う習慣がなかった。確か、一度トムヤムクンを毎日のように食べ過ぎて体が痒くなったときに、鍼治療ついでに病院もいったことをかすかに覚えてるんだけど、そのときの浩一という爺さんの先生が、「身体洗っちゃだめよ~」といったのだった。42丁目にある、日本人の医師が常駐する、いつも保険がきく、待合室にセルフサービスのコーヒーをいれるやつが置いてあって日本語が通じる安心の病院だった。
浩一にそう言われて、わたしはアメリカに住んで確か数年は経過していたと思うけど、「なるほどこの国では身体を洗っちゃいけないんだ」と感銘を受けたのだった。そのうち浩一が死んだという噂を風の噂で聞いた。

そのあと、アメリカ人の元旦那に聞いたら、人生で一度も顔を洗ったことがないと言っていた。彼は普通の白人だったけど、お肌はとても綺麗だったし、イケメンだったし、まあイケメンだったことは顔を洗ったことがあるかどうかは関係ないけど、とにかく、欧米の素晴らしいところは、洗わなくても臭くならないという魔法のような気候なのだ。

マンハッタンの西向きに位置した、窓のついたバスルームはとても風通しがよく、そこでは別の意味で悪夢のような事件が起こったこともあったけど、基本的にとてもクリーンだった。多分だけど、ほとんど誰も掃除をしなくても、なぜか汚れない。いや、汚れてるんだろうけど、アジアに住んでいるときの、目をギラギラさせながらその臭いに過敏になっている状態と比べると、ほんとに不思議と、時々床をさっと掃く程度でも充分に清潔さが維持できたのだった。

玄関を開けてすぐ、左手にキッチンに出迎えられたあと、長い廊下の一番向こう側から扉の開いたその明るく真っ白なバスルームがいつも出迎えてくれた。

話を戻して、おおきなランドリールームというのは、普通のアメリカ人の家庭には存在した。マンハッタンやブルックリンの古いアパートメントには、ビルディングの中には洗濯機はないから、ときどきイケアだかの袋を抱えて人々はコインランドリーへと出向くのが普通。

大きなアパートメントには、地下に住居者専用のランドリーがあったから、そういうところを利用するときもあったけど、元だんなさんの実家とか、一軒家の小さな一部屋がまるごと洗濯用の部屋が存在していること。それは、日本の住居の、風呂の横に申し訳ない程度にぎゅっと押し込まれたあの洗濯機の所帯染みた存在感ではなくて、もっとなんていうかこう、

「洗うぜ!俺はよ!」

「洗うための部屋だぜ!俺はよ!」という堂々たる颯爽とした存在感だったのだ。

そしてその文化は、わたしが妊娠中に飛び込んだ、ニュージーランドの老婆の家にも同じように存在した。

正確にいうとそのランドリールームは、「洗い場」といったほうが正しく、つまり生活のために必要な洗濯機やシンクがあるだけでなく、業務用の平置きの冷凍庫や掃除道具なども置いてある場所だった。

その冷凍庫は、扉を左右にひらくやつじゃなくて腰くらいまで高さのある白い巨大な箱を、ちょうど垂直に上にむかって開くタイプのやつ。

6畳くらいの部屋は、外でもなく、室内でもなく、ちょうど外と室内の間くらいの位置なんだと思う。取り込まれた野菜が床にどんと箱に無造作に入れられているときもあったし、そういうものを家庭用の台所じゃない大きなシンクでジャバジャバ洗ったり、同じく横に置いてある洗濯機を回して洗ったりする。

わたしはその窓が一面に面している部屋がとても好きだった。とくに、片付いているわけでもないのに、その辺に転がっている掃除道具やバケツや、大袋にはいったWashing Sodaや石鹸の箱、引き出しを開けると、古いいつのものだかわからないような、使いかけのたわしの袋が置いてあったり、年季が入っていればいるほど、その化石と化しているはずの生活のカケラが、人の暮らしの生き生きとした年月を彷彿させる。

それはほこりをかぶっていたり、長年の汚れがついていたり、真新しい泥が床に散らばっていても、それでもなんていうか、清潔な感じがした。

こればかりはアジアでは決して体験のできない美しさで、乾いた独特の気候が成し得る美しい汚れ方というか、まあ”アンティーク”ということばがふさわしいのではないかなと思う。
多分、日本や中国で、年季の入った風呂場のこびりついたカビのことをアンティークとは呼ばない。カビやゴキブリ、ぬめりや悪臭、アジアの水回りによく登場するものたちは、その秋から冬にかけたニュージーランドの古いランドリールームには、皆無だった。


わたしはそこで、ときどき時間をつぶした。適当に掃除や用事を済ませることもあったし、洗濯をそこでするのがとても好きで、窓からだだっ広い緑と空のブルーの境界線を眺めながら臨月の腹とともにそこで過ごした。

悪夢の台所とはうってかわって、その部屋はわりと静かだったし、平置きの1畳分くらいあるんじゃないかと思われる業務用の冷凍庫の中は、いつも大抵カオスで悪夢の続きだったけど、ときどきその夢の中を覗いては、わたしはどれが新しく、どれが古く、どれが食べられて、奥の方に埋もれた金塊を探し当てるように、ときどき冷凍されたテンペイ(豆を発行させたベジタリアンがよく肉がわりに食べる、チクワ的なおかず)や、婆さんが週末のマルシェで出すための材料を整理した。

そしてわたしが、自分で洗濯をするための洗剤を作るようになったのが、その部屋だった。あれから5年半が経つけれど、わたしが洗剤を買わなくなったのは、その時からだ。

今も月に一回くらい、シンプルな配合でそれを作って、適当な香りをつけて、それを毎日壊れかけた無印の洗濯機を回すときに適当な量を入れる。

山下に一度洗濯の仕方を教えるときに、回したあとリビングにいた彼を呼びつけ、

「いい?」
と洗剤を入れて見せた。


「こんくらい。」と言って、ちょうど塩や胡椒をフライパンに振り入れるようにして入れるわたしに、「わかんねえよ」と彼は小さい声で言った。

100円均一で買った、ストローをさすための穴が蓋についている小さな飲み物用の瓶が、それはとてもちょうどよく、その瓶に洗剤をじかに入れて、それで朝、五回くらいそれを洗濯機めがけて振るのだ。

ちょっと今日は汚れてそうと思うときは、一振りくらい多めにして、量が少ないときは、3振りくらいになって、ちょうど山下が現れてすぐ去った、梅雨の短いひとときの、じめっとした蒸し暑い季節なんかは、臭いが残らないように多めに洗剤を入れた。

胸の下のほうが、チクチクと痛む夏を過ごす。

婆さんのランドリールームで、なぜわたしは洗剤を作ることにしたのか、それはいまだによく覚えていないんだけど、わたしは特に、ナチュラルライフを目指しているわけでもなければ、手作り無添加の自然派生活に憧れてはいない。婆さんは、自給自足が夢なのだといって、古い小さな平家の屋根に、太陽光発電のパネルをつける工事の話をしていた。

お店にいけば、日本とは違って、可愛いパッケージの、オーガニックで安く手に入るいろんな洗剤や石鹸がたくさん売っている。ドラッグストアやスーパーを一巡りして、3つくらいのスーパーのチェーンを回って、その国で使われている生活用品の傾向をわたしは把握した。

なぜかそして、不思議とそのうちのひとつを手に取るわけでもなく、わたしは洗濯洗剤用のレシピを調べていた。

Washing soda と Borax  と Soup。
原材料はたった3つだ。

日本でも今はメジャーな、セスキ炭酸(Washing soda )は、10年以上前にフランスに住んだ頃、まだ布ナプキンなどというものがまったく世に出回っていなかった時期に、ルームメイトに教わった。血抜きの汚れ落としに、一発で効く魔法の粉。

Boraxのことは、よく知らなかったけれど、欧米で一般的な漂白剤だった。
固形の石鹸を、粉状にして削って、それを混ぜるときいて、まずわたしがしたことは、なんとかして固形の石鹸を粉状にするということだった。

いまだにそれをどうプロセスするのが正しいのかはよく知らないのだけど、多分フードプロセッサーのようなものを使うのだと推測する。

わたしはその古いランドリールームにたくさん置いてあったバーソープを一個見繕って盗んで、それをちまちま削ろうとナイフで表面を削った。石鹸の0.5割も進まないくらいちょこっと削ったのちに、「日が暮れる」と察知したわたしは、最初から粉になっている石鹸を使うことにした。

日本に帰り、いくつかレシピを試して、粉の石鹸は簡単に手には入るけど、とても扱いづらかったので使わないレシピになった。あれを混ぜるたびに、舞い上がって絶妙に気管に入り、石鹸にむせるという地味な苦行。

しつこいようだがわたしはとくに自然派にこだわって人生を満喫したいわけじゃなくて、なんていうか、シンプルでいたいだけだから、苦行になるのなら洗剤は買う。

しかし、日本のドラッグストアで売っている色気のかけらもないパッケージのアリエールだかアタックだか知らないが、そんなものをいちいち購入して見た目を気にするあまり、おしゃれな容器に移し替えるなどという野暮なことも絶対にしたくない。かといえ、最初からおしゃれなパッケージのナチュラルオーガニック志向の高級な洗剤もまた、そんなものを日常に買うこと自体、ダサい。

だったら自分で作るのが無理がなくて、自然だ。

わたしは、外国に住む前、小さな商社で外国の洗剤を輸入する仕事をしていた。目利きになった気分で、フランスやドイツのスーパーを渡り歩き、パッケージやサイズ感やデザインや使い心地を毎回試す時間は、とても楽しいものだった。フランスの生活用品は、ベースがチャラチャラしているおしゃれな感じだが、ドイツなんかはやっぱりとてもカタギで、そこには機能美が必ず宿っていて、毎回すごいな、とそう思い、大量のフロッシュ(かえるのマークの洗剤)を倉庫に迎え入れるたびに、いい仕事だなあ、と腕を組みしみじみ思ったものだった。

生活のそばにあるものは、生活感があったほうがいい。でも、それは絶対に所帯染みてはいけなくて、シンプルすぎてもダメで、おしゃれすぎてもダメで、そこには絶妙なさじ加減がいる。

例えば日本にいるときはどのくらい石鹸で体をあらって、アメリカにいるときは、どのくらい石鹸で体を洗わないか、ということが感覚的に調整できないといけないように、生活するときに置いてあるものもまた、その基準を常に調整しながら足し算や引き算をするのだ。


わたしが、雑につくった洗濯用の洗剤を、おしゃれな瓶にいれずに、100円均一で買った瓶にざっくり入れているのも、そういう理由からだとおもう。

生活は、楽なほうがいい。楽で、シンプルで、なおかつ美しければ、いうことはない。命の生臭さを極力消して、でも、その息吹や生々しさを感じられる程度に残すこと。

洗剤に、名前などなかったけれど、欲しいという人がいたから販売するときに名前をつける。ふしぎなもので、人間はとくに、名前など必要ないのに、生まれるときに、便利だから、通称をもらう。わたしにもMaiという名前がついていて、そのランドリールームの近くで生まれたての数週間を過ごした息子には、Tao という通称が与えられた。

そういう流れで、名前を与えられたその洗剤は、Life is good ライフイズグッド、という。あたかも、最初から名前がついていたことを引っ張り出したかのように、それは決まっていた。

分量と、配合と、使い心地と、毎日と。365日続く、日々の汚れを、生きている証を洗い落とすための白い粉。


その生活は、世界のどこにいても、変わらない。

乾いた冷たい北米のランドリーでも、季節がひっくり返った南半球の老婆のランドリーでも、蒸し暑い日本の梅雨に、泣きながら消えた恋人のTシャツを洗い、それを捨てるか捨てまいか悩む、ジメジメした夏の洗濯機の横でも、それは、きっと、ずっと続く。


それでも人生は、いつも、洗いざらいの白いTシャツのように、素朴でよいものだとおもうのだ。

月に一度、3つの白い粉を混ぜるたびに、わたしはいつかの風を、思い出す。


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