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【映画】すずめの戸締まり 感想

今回は新海誠監督の映画「すずめの戸締まり」
実はこの記事、だいぶ前にレンタルしてきて見てその後すぐにこの記事を書き出してからずっと途中で止まったまま、なんか他にも書きたいことあったような気がして長らく下書きのまま忘れられていたものです。

そして、2024年4月5日の今日、何気なくネットを見てたらすずめの戸締まりがテレビ放送されるということを知り「そういえば以前途中まで感想書いたような…」と思い出して今ちょっとだけ書き足して記事を公開することにしました。

なので以後は今日のテレビ放送ではなく、以前レンタルしてきて見た時の感想となります。

※ここから以前書いてあった内容です。

私は新海誠作品はテレビ放送やレンタル含めておそらくすべて見たんじゃないかな?
劇場では「言の葉の庭」「君の名は」の二作を見ました。

個人的に、誰かのファンを公言することは無いし、むしろ意識的に完全なファンにはならないようにしている節があるのですが、たぶん傍から見たら自分は新海ファンになるんだと思います。

それくらい新海誠作品は好きなものが多いです。

と、いうわけで今回もレンタルしてきた「すずめの戸締り」
先に書いちゃうと正直あんまりピンと来ていません。
決して分からないわけじゃないけど、ん???え?でもちょっと待って??
という感じで分かるんだけど何とも言えない感じのする作品でした。

そのあたり、以後ネタバレでいつも通りグダグダ書いてみようと思います。

ってことで以後ネタバレ注意。



テーマと劇中の設定の話

早速完全にネタバレですが、この映画、2011年3月11日に起きた東日本大震災が重要なキーとなっている。
おそらく、物語として東日本大震災を用いたというよりも、まず、東日本大震災を忘れてはいけない、風化させないって感覚が先にあって物語を練ったような気配が映画からしてくる。

それと同時にタイトルにもなっている「戸締まり」
古びた温泉街や遊園地等、令和となった今ではもう利用されず廃墟化した施設を巡り、産土神(その場所の土地神)へと返還してまわることで地震を引き起こしてしまうミミズが出てこないようにするため代々閉じ師が「戸締まり」をしてまわっている。

人が忘れ去った廃墟の扉から地震がやってくる、でもそれに誰も気づかない。
要するに、地震は忘れた頃にやってくる、何よりも忘れない、風化させないことが大事というのがテーマの一つだと思う。
特に、今回は具体的に東日本大震災の跡地にも行くし、そもそもスズメは幼少の頃に住んでた被災者だし常世にも建物の上に乗った船など震災の時実際にテレビで見たようなビジュアルが示されていて、ハッキリと東日本大震災を忘れてはいけないというメッセージが込められていると感じる。


映画を見終わってざっと思うのは、ミミズとは地下のエネルギー、風水や陰陽道的に言えば「龍脈」、土竜と書くと日本ではモグラだけど中国じゃ土竜と書いてミミズを意味するし、漢方薬の地竜とはミミズの干物。

また、この地下のエネルギーの出どころは物理的な土の中ではなく、人間が住む地上世界の現世に対応するあの世、神様の世界である常世。
常世は常夜とも表記され、常に夜の世界。なのでスズメの見る扉の向こうの世界は常に星が出ている夜空。
常夜は夜のイメージから死者の世界、黄泉の国とも同一視される、黄泉の国は地下にあるとされる。

というわけでミミズとは地下にある地上の現世とは対を成す神様や死者の世界、常夜のエネルギーであり、ミミズと呼ばれるのは龍脈等、巨大なエネルギーを龍とすることがあり、またミミズも龍とされる場合があるから。

そんな土地と現世と常世を繋ぐのが例えば地鎮祭等の儀式。

土地を利用することを神様に許して貰う地鎮祭。
神様はその土地を人間が使うことを許し、土地のエネルギーと人間を繋ぐと考えると、現世と常世との扉を開ける。
その土地を利用しなくなったのに神様に返還せずにほったらかしの廃墟にすると、いつしか土地のエネルギーが溢れ出しその有り余ったエネルギーが地震になる。

使わなくなった土地を神様にお返しすることでこのエネルギーが出てくる穴を閉じるのが閉じ師。

私の解釈ではこういうことだと思う。

つまり、私達の現実世界での東日本大震災を忘れるな!というテーマに、忘れ去られた廃墟やそんな使わなくなった土地の神様へのご挨拶とを合わせることでこの物語が出来ている。

ちなみに、福島へ向かう道中にかける懐メロが70~80年代なのを考えるとバブル景気の時に最盛期を迎えていた施設が今や廃墟ということで、おそらくこれ、新海監督の子ども時代に最盛期を迎えていた施設なのでは?

それ使わなくなった今、始末せずにほったらかしで忘れていいんかよって話?



ダイジンってさ…

物語の動くきっかけでもあり終わる要でもある要石ネコことダイジン。
東西に各一つの要石があり、東京にあった要石はデカい猫となりサダイジンと名乗った。

つまりスズメの町にあった要石だったダイジンはウダイジンで、右大臣、左大臣となる。
東の要石の方が左大臣なのは雛人形の配置をググってもらうと分かると思うけど中央の天皇から見て天皇の左手側が左大臣だから。
因みに左の方が上位なので右大臣と左大臣じゃ左大臣の方が上位なのもこの要石の猫の関係性に通じる。

さて、そんな要石だけど、ソウタの祖父の言う「ソウタはこれから何十年の月日で神になっていく」ということやダイジンの言う「スズメの子にはなれなかった」などから察するに、ダイジンもサダイジンも元々は人間、ミミズを抑えるための生贄の立場だと推測できる。
ダイジンが子供っぽいのでサダイジンが親や閉じ師の師匠だったりするのだろうか?

病室の窓にいたサダイジンにソウタの祖父が「お久しぶりです」というということは、サダイジンを東京に設置したのが祖父?
単に要石の場所替えの時期が来ただけなのか、当時新たに人間を要石にしたのかでもどの程度の面識があるのか変わってくると思う。

どちらにせよ、この日本では誰かの犠牲の上に成り立っている、見えない誰かの犠牲の上に成り立ってるのがこの世界…と表面上は見えるけど、その要石の名前がダイジンで、本来の役目を放棄して好き勝手する、SNSにもお構いなしで要石としての機能が失われ、当の大臣が、いざ東京にミミズが落ちる、大災害がまたという場面で「人がいっぱい死ぬね、くり返すね」と他人事なのは、災害に対する政府の本気度、いわゆるお飾り大臣への批判が込められている?

逆に要石になった閉じ師を「大臣」と呼び、厄災を封じ込めるための犠牲と考えると、現実での政府の大臣はそういう自己犠牲の精神が必要ということなのかな?
まぁ、現実として考えると政府の大臣はぶっちゃけ権力と金が得られるわけで、自己犠牲という前に国のために自身を犠牲にするに値するだけの報酬はしっかり得ていると思うけれど…。

まぁ政府の大臣が無責任って気がするのは事実だけど、でも大臣がしっかりしてたからって地震が起きないわけじゃない…大臣の役目は起きてしまった厄災への対処、事後の対応なのでは?

そしてこの映画のダイジン(閉じ師の犠牲)が決定的に違うのは、閉じ師は一般には隠された、要石=ダイジン=犠牲となったとしても誰にも称賛はされず、人知れず犠牲になっている部分だと思う。
現実の大臣とは違い、要石から解放され自由の身になった時に、もう犠牲になるのは嫌、自由にしたいと思ったとしても正直に言って責める気にはなれない。
現実の政治家の大臣は自分でなりたくて政治家になるために、国民のために働くので清き一票をと声をあげてなるわけで自己犠牲を強いられても当然と言えば当然だしその分の報酬も名誉も得ている、辞めたければ辞めればいい。

劇中のダイジンとはずいぶん境遇が違うと思う。



私がこの映画がいまいちな理由

ということで、見出しの通り正直に言って今回の新海監督の映画は個人的には微妙。
相変わらず映像は奇麗だし、舞台もどんどん移り変わって飽きないし、言いたいことも概ね分かった気になっているので、理解できなくてつまらないってことではないのだけど、でもなんか今回はあんまり…。

決して見て損したとかは思わないものの、まぁ一回見たからもういいかで終わってしまう感じだった。

自分でもなんでかなぁと思うので、少し具体的に書きたいと思う。


設定の無理感

とりあえず最初に思ったのが設定に対して今回は素直に受け入れられなかった。

例えば、ミミズは人が住んでいる多くの人の思いが抑えているので廃墟など人がいなくなると抑えが効かなくなって出てくるとソウタが言っていたと思うけど、そうすると東京に出てくるのはさすがに無理がある。

皆に忘れ去られた地下のおそらく江戸時代?あたりの門扉だから、そして今はミミズの頭があって要石で封印してる特別な場所ってことなんだろうけど、そこまで古い門扉もOKなら戦国時代の中心地である岐阜方面やもっと歴史のある京都なんか特別な門扉があってもよさそうだし、東京の地下は特別な場所で要石があるのに、西の要石はただのバブルの廃墟なのもよく分からない。

それに、そもそもこの閉じ師って世間一般には隠されていたとしても祝詞を唱えていることからも神道の神職のような存在で、代々日本の土地を守るために扉を閉じてきた要石まで配置するような存在なんだから、言ってしまえば政府や天皇家とは繋がりが無いとおかしいレベル。

東京の地下にあんな立派な門がある空間があって、しかも普通にスズメが歩いて出てこれる現代の扉があるような空間ってもう有名観光地化しちゃえば忘れ去られたじゃなくなるからミミズ出てこないと思うのだけど…。

しかもこれを突き詰めると、じゃあ東日本大震災はどんな忘れ去られた場所が発生源だったんだ?という話になる。

今の人たちへのメッセージとして、忘れるなって意味合いで廃墟等々の忘れ去られた土地が原因でとなると、東日本大震災それ自体も同様の原因があったということになるし、スズメが迷い込んだ扉がそれだったのか?当時普通に人が住んでいたであろうご近所の扉っぽかったけど、瓦礫にはなっても災害当初は別に忘れ去られた廃墟では全然ない。なのに幼少期のスズメの前に常夜が開いたのはなんで?となる

個人的に東日本大震災のことを持ち出すこと自体は全然良いと思うのだけど、そのテーマと今回の設定は食い合わせが悪いというか、そういう理由で地震が起きてて閉じ師がいるのねって設定も東日本大震災に当てはまることになるので、東日本大震災の時は閉じ師は失敗したってことになる。

テーマとかメッセージは悪くなくても、現実の話とフィクションを混ぜて寓話のようにすると、現実の部分が割と最近のことだけに違和感というかフィクションにはなり切れない無理さが目立ってしまうのかなと感じ、そういう感覚は初めてだったので新鮮といえば新鮮な感覚だった。

映画全体から漂う既視感

田舎の女子と東京の男子が出会って冒険
被害の大きかった場所へ行き、この世じゃない場所まで行って帰ってくる

あれ?これって君の名はの話だっけ?天気の子の話だっけ?というくらい基本的な構成が一緒。

新海節と言われればその通りだけど、絵柄もキラキラ感も構成まで3本連続で似通っているのはさすがにマンネリ感が凄い。

新海作品は男女の出会い、運命ってのはお決まりなものの、例えば「君の名は」を前作「言の葉の庭」と比較すると全然違う印象の作品だったし、言の葉の庭の前はまた全然違う作品だった。

「君の名は」は私自身凄く好きなのだけれど、続く天気の子、そして今回のすずめの戸締まりと、特別クオリティが下がったわけではないのにとにかく既視感が強くよく言えば安定してるけど、悪く言えばもうこれ飽きたと感じた。



ということで以上が以前書いて下書きのまま放置されてた部分です。
ちょっと読み直して「あれ?こんなこと書いたんだっけ?」というレベルでもう忘れちゃってたのですが、せっかく書いてあったのでそのまま公開してみることにしました。
なので、悪く言えばもう飽きたみたいなところで唐突に終わっていますが、確かなんかもうちょっと書きたいことがあったので下書きで止めてあったはず…もう思い出せないのでとりあえず以前書いてあったままで公開します。


正直、今テレビ放送をなんとなく流し見しながらこれを書いているのですが、あれ?ちょっとカットされてる???というような気がしているのと、やっぱり映像として綺麗なのは相変わらずで、しかしそれ故にやっぱり思うのが、もしこの作品が言の葉の庭の次の作品だったら?仮に「天気の子」「君の名は」の二作品が無かったら、私の感想はもっと好評価だったのではないか?そう考えると結局私の中で一番引っかかっているのは言の葉の庭以降の作品の似通った雰囲気の連続って部分なんだなと今日のテレビ放送を流しながら思った次第です。

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