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ジロー

ジローが、かえってきた!

ジローの足は、はやくなった。

ジローの声は、ひくくなった。

ジローの体重は、おもくなった。

ジローの顔は、シブくなった。


第一章
タイムマシンにおねがい

私は三歳から九歳まで、私の父親の仕事の都合で、タイはバンコクに住んでいた。
当時のバンコクは信号機が無かったので、一家で車の量が多い道路を横断する時、心中しないように、細心の注意を払って前後左右確認をしていた。
冗談ではなく、命懸けであったことを私は記憶している。
信号機が無いので、車の運転はさぞかし難儀しただろう。
私の記憶では、車を運転している時、周囲の車が危険な運転をしているのに対して、
「バカヤロー、危ねえじゃねえか!」
と、私の父親が車の窓を開けて、関西弁でキレていた。
私はお笑い番組に一切興味が無いので、あまりツッコミに自信が無いのだが、このような状況下に対して、一言だけ言わせていただきたい。
「周りの人たち、タイ人やで!日本語、知らんで!関西弁なんて、絶対知らんで!」
普段は優しい彼だが、当時の彼はキレると関西弁で話していたと、私は記憶している。

もし、タイムマシーンがあるならば、私は迷うことなく、この当時の彼に会いに行くだろう。
私は彼の息子だということは、彼に決して告げない。あくまでも、私は彼の同業者を装い、彼に近づく。
彼と私は酒好きなので、仲良くなるのは簡単だ。そして、頃合いを見計らい、彼をドライブに誘いたい。先述した状況下にわざと遭遇して、彼のキレる様子を、私はiPhoneのボイスレコーダーで録音したい。iPhoneを彼に見せてしまうと、当時の彼の文明レベルは私の文明レベルに到底近づくことはできないことは明白なので、私は彼に秘密にしておく。
ここが肝心なのだが、私が先述したツッコミは、この段階で彼にはしない。
私は生粋の東京生まれ、東京育ち(たまにタイ育ち)、チャキチャキの下町っ子なので、関西弁を話すことはできないし、彼に無理をしてそれを話したとして、彼を不愉快にさせたくはない。
できれば、関西弁でキレる彼に対抗して、
「べらんめー、バカヤロー!」
と、私は江戸弁で彼に加勢してキレて、彼に驚きと畏怖の念を与えたい。
父親(コイツ、気合入ってるで、、、、、)
このように彼に思ってもらえたら、私の仕事は終了だ。
ドライブが終わりに差し掛かろうとするタイミングで、私は彼の人生相談に乗ろうと思う。
もし、彼が子育てについて何かしらの不安を感じていたら、私はこうアドバイスをするだろう。
「大丈夫、君は世界で一番良い父親になるよ。俺が保証する、絶対だ。」
そして、私は彼に別れを告げ、急ぎ足でタイムマシンに乗り、現在の彼を訪ねる。
私が録音した彼の声をツマミにして、二人で酒を飲みたい。


第二章
あおぞらマルシェ

ここまでで、私はジローの話を一切書いていない。
神は細部に宿ることを信じよう。
さて、本題に戻る。

たしか、私が六歳の時だったと思う。両親に「一生のお願い」を、まだ六年間しか人生を経験していないのにも関わらず、私は人生のかなり早い段階で、最強の手札を切ってしまったのである。
当時の両親はさぞかし驚いたであろう。きっと、兄と私が就寝している時に、両親は会議を開いたのではないか。
母親「もう使っちゃったね、一生のお願い。」
父親「うん、結構早かったね。」
母親「どうする?」
父親「どうしようか?」

後日、私たちはバンコクにあるペットショップにいた。
私は楽天家なので、「一生のお願い」という手札は、あと二、三枚は手元に残っているだろうと浅はかに思っていた。
ペットショップと言っても、バンコクのそれは、日本とは大違いだったと私は記憶している。
この辺りの記憶は、早朝の山道に霧がかかっているかの如く、非常に曖昧だ。
もしかしたら違うかもしれないし、合っているかもしれない。
というか、違っていても良いのかもしれない。人の記憶なんてそんなものだ。
人は見たいものしか見ないし、覚えたいものしか覚えない。

まず、私たちがいたペットショップは、ペットショップではなかった。
私たちは市場にいた、という方がより正しく想像してもらえるだろう。
市場と言うと、室内もしくは屋根のある開放的な建物を想像するだろうが、それは違う。
当時のバンコクは排気ガスの量が多かったので、爽やかとは正反対「鬱陶しい」が、より正確な表現だと私は記憶している。

私たちは、灰色市場にいた。

これだ。かなり正しい表現だ。

少しだけオシャレにしてみよう。

私たちは、はいいろマルシェにいた。

私たちがいた、はいいろマルシェでは、「ボンジュール」なんて気取った言葉は聞いた試しがないので、やはり灰色市場がお似合いだ。

灰色市場では、さまざまな種類の動物たちが、檻に入れられていた。もちろん、犬たちも檻に入れられていた。
様々な種類の犬たちが、
「ボクを、ワタシを、キミの家に連れて行ってワン!」
と、主張していた。
私は、彼らが必死にする主張の多さに混乱した。
なぜなら、私たちはたった一つだけの主張を受け入れることしかできなかったからだ。

混乱している私に、その時、ピタリと、驚くほどの静寂が訪れた。

俯いていた私は、ふと左斜め前方に視線を上げる。

視線が合う。

呼吸が止まる。

微笑む。

その時、灰色市場はあおいろマルシェになった。

私は興奮して、人差し指をピンと張り、丼から溢れんばかりのたっぷりとした自信を持って、両親に声高らかに、こう宣言する。
「ボクは、この犬たちを持って帰る!」
当時の両親は、さぞかし驚いたに違いない。
なぜなら、当時の私は「犬たち」と、宣言したからだ。
「犬」ではなく「犬たち」だ。
つまり単数系ではなく、複数形だ。

そう、私は早くも二枚目の「一生のお願い」を使おうとしていたのだ。

アプリコット色のフワフワした柔らかい毛玉のような唐揚げ。たまに白色のごま油がほんのりと混ざっている。
私が指差していた二匹の犬たちだ。
もしかしたら、その時の私はお腹が空いていたのかもしれない。
タイ、バンコクに住んでいても、私の母親は日本食を作ってくれた。
この二つの要素が合間見合い、私は彼らを選択したのかもしれない。
つまり、私は二つの唐揚げを選択したのだ。

双子であったのかは定かではないが、その二つの唐揚げは、私にとっては二つで一つだった。
オセロが、黒と白の色ではないと、ゲームが成立しないかの如く。

私にとっては、そのくらい至極当たり前の選択をしたつもりであった。
両親は、とても落ち着いた表情で私にこう言った。
「一生のお願いはね、一回しか使えないんだよ。」
私は衝撃を受けた。
だって、「一生のお願い」の手札を二、三枚、ポケットの中に入れていたから。
初めて、「実はね、地球は丸いんだよ。」という事実を告げられた人は、さぞかし驚いたであろう。
当時の私にとって、「一生のお願いは一回まで」と「地球は丸い」は、同等の衝撃であった。

私は悩んだ。悩みに悩んだ。

二者択一。

もしタイムマシンがあるのなら、私はこの現場に急行するであろう。
そして、まずは父親に再会の挨拶をする。「仕事の関係で日本に一時帰国していてね。」とでも言うだろう。
それならば、父親は私を訝しむように見ないであろう。
次に、母親に挨拶をする。あまり話しすぎてしまうと、母親は、
(この人、他人とは思えない。何だろう、この懐かしい感じは。)
きっとこのように思うだろう。
なぜなら私は、私の叔父と顔が似ているからだ。
私の兄には、りんご飴を一つだけ与えておこう。私が記憶している限り、そのお菓子が、後の兄の好物になるからだ。
つまり、予め私は兄の脳に、舌に、
(うわぁ、なんだこのあまくてシャリシャリしたのは。)
と、りんご飴の思い出を脳に刷り込んでおくのだ。
最後に、当時の私には百四十バーツ(およそ五百円。現在の為替で調べたので、当時のそれとは異なる。ご留意いただきたい。)を、両親と兄にバレないように、 −まるで政治家が高級料亭で賄賂を渡すかの如く− そっと渡して、私は、
「いいかい、よく聞くんだよ。一生のお願いは一回しか使えない。君はさぞかしショックを受けただろうが、百四十バーツあれば、ハワイタワー(当時の私たちが住んでいた高級マンション。当時の日本とタイの物価は雲泥の差があったので、日本人は全員、富豪並みの暮らしができた。)にあるゲームセンターで、たくさんストリートファイトができるよ。たくさん練習して、お兄ちゃんをギャフンと言わせたいだろう?君はどちらかの犬を選ばないといけない。もし私なら、より唐揚げに近い犬を選ぶけどね。もし私ならね。」
そして私は、その場を立ち去るだろう。
なぜなら、私は答えを知っているから。

当時の私は悩みに悩んで、人差し指を自信なさげに、 −まるでミミズのように左右へウニョウニョさせるかの如く− 一匹の犬に向けて、恐る恐るこう宣言する。
「この犬にする。」
いつだってそうだ。重要な決断は、私を不安にさせる。
だが今にして思えば、この時の私が下した決断は、(私が敬愛する)スティーブ・ジョブズが、大学を中退する決断と同じくらい素晴らしかった。

だって、ジローに会えたから。

これが私とジローの出会いだ。


第三章
私とバイクの歴史


私は、二〇二一年十二月二十四日から、バイカーに再び戻った。
以下は、私のバイク歴だ。

十六歳から十八歳 − ホンダ・ディオ(排気量五十cc)
十八歳(高校卒業から大学一年生の夏ぐらいまで) − ホンダ・スティード(排気量四百cc)
十八歳(大学一年生の秋ぐらい)から二十二歳 − ヤマハ・マジェスティ(排気量二百四十九cc)
二十四歳から二十五歳 − カワサキ・250TR(排気量二百四十九cc)

私のバイカー歴は七年だ。
私の中学からの友人Oの影響で、私は、「バイカーはマジでめっちゃカッコいい」という印象を持つようになった。

そもそも、私はタイ・バンコクに住んでいた時、私の母親の妹、つまり叔母が、映画「ターミネーター2」を私と兄にプレゼントしてくれた。
日本から発送、もしくは私たちに直接会いに来たついでに、それをプレゼントしてくれたかどうかは不明だが、(そもそもプレゼントというか、私たち家族に「はい、こんなのでも良かったら見てね」という程度の気持ちであったのかもしれない)私にとっては、彼女が私と兄にそれをプレゼントしてくれたと記憶している。
私と兄は、その映画を一度だけ鑑賞して満足したのだが、当時の私はそうは問屋が卸さなかった。
アーノルド・シュワルツェネッガー(以後はシュワちゃんと呼ぶ)演じる「Tー800」役に、当時の私は衝撃を受けた。
私は落雷に遭遇した経験は無いが、感覚としては、私のつむじに向けて、天から雷が ー何も迷うことなく、勢いよくー 一直線に落ちる、この表現が一番近い。
(何だ、この革ジャン、サングラス、バイク、ショットガン、Hastala Vista野郎は!?)
私は彼に憧れて、日本に帰国するまでの間、ほぼ毎日、一人きりでその映画を見ていた。

今にして思い返すと、完全にヤバい少年だ。
毎日「ターミネーター2」を鑑賞していた少年は、果たしてこの世界に何人いるのであろうか?
また、当時の私の両親と兄は、私のことをどのように思っていたのであろうか?
当時の私は、その映画の台詞(日本語)を全て暗記していた。
つまり、私はテレビ画面に向かい、ほぼ毎日、一人きりでその台詞をブツブツと呟いていたのだ。
ヤバすぎる。今、この時、この瞬間、この文章を一文字ずつ書いている時、私は自分自身のヤバさに気圧され、畏怖の念すらも抱いている。

こうして私のバイクとリピート好きは始まった。

私は、少年の時からバイカーに憧れていたのだ。
私の中学からの友人Oが、私の心の奥底にひっそりと佇む(まるで映画「LIFE!」に登場するショーン・ペン演じるショーン・オコネルが、雪豹の写真を撮影する時のシーンのように)エンジンスイッチをオンにしてくれたのだ。


第四章
バイバイ。ブラックバード。

現在から遡ること十年前、当時の私は金が無かった。
金が無くても好きな人と一緒にいられれば幸せ、と世間の人々はいうが、私はそうは思わない。全く思わない。

私が、その当時に乗っていたバイクはカワサキ・250TRだ。
自賠責と任意保険とバイクのフロントフォーク修理、この三つが、同時に私に襲いかかってきた。
ボクシングで例えるのであらば、ジャブ、フック、アッパーカット、一ヶ月の間に、私の財布にお見舞いしてきた。

ノックアウトだ。

払うことができなかった。

まだ一月に一回ずつなら、私の財布は何とか持ち堪えられたが、一度にまとめて払うことができなかった。
当時の私は、悲しみと同時に悔しさが込み上げてきたことを記憶している。
私は、家の近所にあるバイク屋に行き、泣く泣くカワサキ・250TRを手放した。


第五章
鉄馬と騎手

それから空白の七年が過ぎる。
時は二〇一八年八月二十一日。
この日、私は撮影の仕事で、東京は品川区西大井にいた。
私は駐車場に車を停めて、それから降りる。
すると、遠くから、

ブロロロロロロ!

轟音だ。
地響きの様な低音ではない。四声体(ソプラノ、アルト、テノール、バス)で言うならば、三番目のテノールだ。
決して高くはなく、低くもない。その中間だが、やや低い。
次に強弱記号(pppからfff)で言うならば、fffだ。
その他の強弱記号は、選択肢に無いと言わんばかりの意志の強さを感じることができる。
その轟音が、私と撮影スタッフに迫ってきた。
私は身の危険を感じ、焦り始める。何も悪いことをしていないのに、まるでこれから処刑されてしまう罪人のような気持ちだ。
しかし、撮影スタッフのうちの一人、照明スタッフは、非常に冷静な顔で、私たちに向かって、こう言い放つ。
「来ましたよ。」
私は何が来るのか全く理解出来ず、さらに焦る。
真夏なので、焦りすぎて、私の脇と背中とこめかみは、まるでナイアガラの滝の如く、勢い良く汗る。

その轟音が、私たちに近づいてくる。

鉄の塊だ。鉄の塊に人が一人、前屈みになりながら座っている。
鉄の馬、鉄馬。
まるで競馬の騎手のようだ。
鉄馬と騎手が、私たちに近づいてくる。

ブロロロロロロ、ロロロロロロ、ロロロ、ロロロ、ロロロ、ロロロ、、、、、キシュン

騎手は鉄馬から降り、装着していたゴーグルとヘルメットを外す。

見慣れた顔。

「あっ!」

いつもお世話になっている照明スタッフだと、私は認識する。

私たちは彼のバイクに ーまるで明るさを求める虫の如くー 集まり、それをまじまじと見る。
私はその照明スタッフのバイクの格好良さに衝撃を受けてしまい、
「めっちゃ格好良いっすね!」
を、おそらく三十秒に一回の割合で言っていた。

その照明スタッフが、私の心の奥底に潜んでいたエンジンスイッチを、再びオンにしてくれた。

私は、何度でも立ち上がる。
私は、何度ノックアウトされても、必ず立ち上がる。

なぜなら、私は日本代表(自称)の負けず嫌いだからだ。
七年前の悲しさと悔しさに、私はリベンジマッチを申し込むことにした。
この日を境に、私のトレーニングが始まった。


第六章
革ジャン

まず、私は革ジャン入手を最初のトレーニングメニューに加えた。
いきなりバイクを購入する前に、どのような革ジャンを着るかが重要だと考えたからだ。
私の革ジャン好きは、大学生の頃から始まったのだが、この話は、また別の機会にする。

バイクと革ジャン。
バイクとレザージャケット。
革ジャンとバイク。
レザージャケットとバイク。

おそらく、私はこの四つの文章を、一日中書き続けることができるかもしれない。筆で丁寧に書いても良いだろうし、サインペンでササッと書いても良いだろう。

とにかく、バイクと革ジャンは、表裏一体、太陽と月、朝日と夕日、昼と夜、山と海、ご飯と味噌汁、ウィスキーとジャズなど、列挙するときりがないのだが、つまり バイクと革ジャンは、二つで一つなのだと私は認識している。

ひとえに、革ジャンと言っても、実に様々な種類の、
⑴革
⑵デザイン
が、この世の中に存在していることに、私は圧倒されてた。

まず、⑴なのだが、現在、私が認識している革の種類は、馬、牛、羊、鹿、豚、鰐、カンガルーだ。おそらく、これらの他にも存在するに違いない。
つぎに、⑵なのだが、例えばライダースジャケットには、
(a)シングル
(b)ダブル
が、ある。しかし、(a)と(b)には、色は当然のこと、ジッパー、ポケットの数、など無数の要素が加わり、まるで私を脱出することが不可能に近い箱(映画「CUBE」)の中に閉じ込められたかのように、迷わせ、戸惑わせ、混乱させる。

このような場合、私は心のコンパスを使用する。

私の心のコンパスは、映画だ。
つまり、映画を参考にする。

今回、私が革ジャンを入手するにあたり、参考にした映画は、
⑴「ターミネーター2」のシュワちゃん
⑵「ドラゴン・タトゥーの女(デヴィット・フィンチャー監督)」の、リスベット・サランデル
⑶「ウォーキング・デッド」のニーガン(ドラマ)
の、三作品に共通する革ジャンのデザインは、ライダースのダブルだ。

こうして、私の革ジャン探しの旅が始まったのである。


第七章
鹿じゃん

まず、私は書店に行った。男性ファッション誌が並んでいるコーナーにたどり着き、いくつかの雑誌を手に取り、パラパラと流し読みをしていく。その後、自動車とバイク雑誌が並んでいるコーナーに移動して、デイトナを手に取り、所ジョージ氏の生き方を改めて尊敬するという確認作業をした後、その場を去る。

ゼロだ。
書店で流し読みをした程度で、最高の革ジャンに出会えるはずがない。

明治通り、渋谷と原宿のちょうど中間に位置する、一階にある入り口の、鉄の重い扉を開けて地下に降りてゆく洋服屋は、私の大のお気に入りのお店だ。
値は少々張るが、私にとって、その洋服屋で購入した衣服は、デザインはもちろんのこと素晴らしく、全てが一生モノだ。
(この洋服屋とは、私の一生をかけて付き合ってゆく。)
そう思い、ほぼ毎日、私はその洋服屋のブログに目を通している。
そのブログは、ほぼ毎日の頻度で、春夏シーズン、秋冬シーズンの新作情報を更新している。
私にとって、そのブログに毎日目を通すことは、新聞に毎日目を通すことと同等だ。

二〇一七年六月二十一日水曜日に、インターネットを通じて、私はある一枚の革ジャンと出会った。
その革ジャンは、もちろんダブルのライダースジャケットだ。
しかし、通常よく見かけるそれとは、何かが違う。
色はもちろん黒なのだが、どこか普通の黒ではない。これは写真の照明の当て方ではなさそうだ。
黒ではあるが、少しだけ茶色がかっている。つまり、艶がかかっているのだ。まるでその革ジャンが、キラキラと輝いているダイヤモンドのように私の目には映った。

(これだ。これしかない。)

私はそう思い、そのブログをInstapaper(ウェブページを保存できるアプリ)に保存した。
もちろん、その革ジャンは値は張るので、すぐに購入することはできない。私は ーライオンは草むらにひっそりと潜み、獲物を慎重に狙うかの如くー金と機会を待つことにした。
幸いにも、当時の私は繁忙期であったため、いくつかの仕事を終えた後に、金が入る予定だ。その金の合計額を確認すると、革ジャンを購入する余裕は十分にある。
私はその金が入るまで、ひたすら仕事に没頭した。
(今、俺が撮影している映像、編集している映像、クライアントと打ち合わせ、これらは全て、たった一枚の、あの革ジャンのためだ。)
私はしばらくの間、これだけを考えて仕事をしていた。

仕事は全て終えた。そして金は手に入った。
私は何を血迷ったのか、クレジットカードで支払えば良いのに、わざわざ銀行に行き現金を引き出した。
おそらく当時の私は、現金の束を感じたかったのかもしれない。
もし私がクレジットカードで、憧れの革ジャンを購入していたら、JCBのOkiDkiポイントはかなり追加され、Amazonで、どうでも良い物をポチることができただろう。

ポケットの中にその現金を握り締め、私は店の前に立つ。

この時の私の気持ちを正確に文章で表現すると、スラムダンクの赤城剛憲、ゴリの名言が必要になる。
ゴリ、あの名言を頼む。
赤城剛憲「俺はいつも寝る前に、この日を想像していた。湘北が、神奈川の王者、海南大付属とインターハイ出場をかけて戦うところを毎晩思い描いていた。一年の時からずっとだ。」
ゴリ、有り難う。
この名言を私は胸に抱きながら、その店の重い扉を片手で力一杯開けて、半地下へと続く階段を下りた。

私は現金で購入しようと覚悟した革ジャンと対面した。
ほどなくして店員が、
「もしよろしければ、試着なさいますか?」
と、私に尋ねる。
「はい、お願いします。今日は買いに来ましたので、私の覚悟は決まっています。」
と、私は返答する。
サイズ三十八と四十のどちらかが、私に最適だと、その店員は判断して、その二着を用意してくれる。
どちらを先に試着したかは思い出せないが、多少の余裕を持たせることを配慮して、サイズ四十に決定した。

ちなにその革ジャンは普通の革ジャンと一味違うことを事前に伝えておきたい。
よくある革ジャンのイメージは、着用してから日が浅いと、革が体に馴染まないので動きづらい。年月と共に、革が体に馴染み、動きやすくなる。というのが概ねそうであろう。
その場合、その類の革ジャンに使用される革の種類は、馬か牛だ。馬は牛に比べると柔らかいが、牛は硬い。牛は、まるで鉄の鎧のように硬い。その分、タフだ。
私の中で、馬は「学校のクラスに必ず一人はいる優等生」というイメージを持っている。
つまり、初めて馬の革ジャンを着用した時の「うわー、めっちゃ革ジャン!」というワクワクを百パーセント楽しむことができる上、少しずつ少しずつ革が体に馴染む過程を、視覚と嗅覚と触覚で最大限に堪能できるのだ。
つまり、文武両道の優等生だ。

しかし、その革ジャンに使用されている革の種類は、鹿だ。
私は、−その革ジャンに使用されている革の種類を知らずに- 試着した時に衝撃を受けた。
「何だコイツは。」
恥ずかしながら、当時の私は革ジャンイコール馬か牛の二択だけだと思い込んでいた。
羊の皮はしなやかで着用しやすいと噂に聞いたことはあるので、私は店員に、
「この革ジャンは羊ですか?」
と、恐る恐る尋ねると、店員は、爽やかな満面の笑みで、
「鹿です。」
と、革ジャン初心者の私に教えてくれた。

下記、お店のブログを抜粋。

-奈良県で百三十年の歴史を持つ、藤岡勇吉本店の最高級鹿革を使用。柔らかく滑らかな肌触りで着用に一切のストレスを感じず、きめ細やかなシボを持つ表面は着込む程に上品な艶を生みます。-

私は無鉄砲なのだが、店員は上記の内容と、店員独自の丁寧且つ非常に分かりやすい説明をしてくれたお陰で、私は自信を持って、
「これでお願いします、支払いは現金でお願いします。」
こうして私はサイズ四十の愛と優しさに満ち溢れてた革ジャンを手に入れたのであった。


第八章
私の座右の銘

それから、三年の月日が経過する。
その間、私はどのようなスタイルのバイクを購入するか、ひたすら空想していた。
映画「ドラゴン・タトゥーの女」で、主人公のリスベット・サランデルが乗っていたバイクに憧れた。インターネットで調べてみると、彼女が乗っていたバイクはホンダのCB350を基にしたカスタムバイク。
また、映画「紅の豚」で、主人公のポルコ・ロッソが乗る飛空艇に憧れた。
彼の宿敵?であるドナルド・カーチスが、彼の飛空艇の色を「破廉恥な赤」と表現していたが、その色の例え方に恐れ入った。
この二作品に登場する乗り物の要素を、私は自分のバイクに取り入れたいと考えていた。
しかし、三年が経過してから、私は自分がバイクにまだ乗れていないことに気がつき、焦燥の念に駆られた。
(まずは大型免許を取得しないと。)
思い立ったが吉日、私はいくつかの教習所に連絡をした。
すると、コロナウィルスの影響で、教習所に入所、つまり教習を受ける前までに、およそ一ヶ月は待たなくてはならないことが判明した。
さらに、一ヶ月待つと、晴れて入所してから一回目の授業を受けられるのに、少なくとも一、二週間は待たなくてはいけないとのこと。
私は中型免許を取得済みで学科試験は不要、実技授業はおよそ十時間なのだが、
⑴入所に一ヶ月待ち
⑵授業に一、二週間待ち
なので、冷静に計算してみると大型免許取得までに、およそ三ヶ月の時間を費やさねばならない。
三ヶ月という時間は、私の中では、大きな規模の仕事をしているという想像をしてしまうので、ついつい尻込んでしまう。
しかし、コロナウィルスが終息する目処は一向に立たず、この文章を書いている現在(二〇二一年三月三十一日水曜日午前四時十四分)も、同様の状況だ。
私は決意した。
(時間はたっぷりある。待ってやろうじゃないか。)
こうして、私は晴れて、平和橋自動車教習所に足を運んだ。
くしくも、その日はどしゃ降りの雨であったことを私は記憶している。

結局、私はおよそ二ヶ月で免許を取得することができた。
理由は簡単だ。
金だ。

平和橋自動車教習所は、通常の料金に加えて、いくらかの金を支払うと、卒業試験までの予定を、他の生徒達よりも優先して組んでくれるのだ。
ちなみに、漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公である両津勘吉の座右の銘は「幸福は金で買える」であるが、私の座右の銘は「時間は金で買える」である。


第九章
クリスマス・イブなんてクソくらえ

卒業試験は、バイクを最後に停車する位置を大幅に間違えてしまい、試験管の壮絶なツッコミを喰らったのだが、晴れて一発合格だった。
私と一緒に卒業試験を受けた他の三名も、もちろん無事に合格だった。
その後、私は一目散に江東運転免許試験場に行き、免許更新を終えて、ハーレーダビッドソン亀戸の店長に電話をかけた。
私「免許、一発合格でしたよ!」
店長「おめでとうございます!」
この日は、二〇二〇年十一月十八日水曜日だった。
私がハーレーダビッドソン亀戸で注文したバイクなのだが、店長曰く、コロナの影響により、バイクが日本に到着するのに、二、三週間程度必要で、そこから車検があるから、諸々の作業を含めると、私がバイクに乗ることができるのは、およそ一ヶ月程度かかるとのこと。
(時間はたっぷりある。待ってやろうじゃないか。)
私の決意は、ダイヤモンドよりも硬い。
ちなみに私が先述した「ドラゴン・タトゥーの女」と「紅の豚」の要素は、そのバイクとは一切関係無い。

同年十二月二十四日木曜日に、バイクを納車したのは、決してクリスマス・イブに自分へのクリスマスプレゼントを贈る、孤独で寂しい独身男性三十五歳を演出したかったわけではないことを、強調しておきたい。
私は、クリスマスが嫌いだ。
家族と過ごすそれは好きなのだが、そうしないそれは嫌いだ。
そして、クリスマス・イブは大嫌いだ。
その日が、バイク駐車場の最も早い契約開始日なのだ。
だからだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
周囲の人々(任意保険、これからバイクのカスタムをお手伝いしてくれる方々)にバイクの納車日を伝えると、
「クリスマス・イブですか!」
と、反応されるが、私はそれを平然と受け流した。

十二月二十四日木曜日、納車日、私はドキドキしていた。
この類のドキドキは、かなり久しぶりだ。
これは、私が十八歳の時、ヤマハのマジェスティを納車してもらった緊張に似ている。
アイボリーのジェットヘルメットを片手に、私は総武線の千葉行き電車に乗車する。
ドキドキ。
(バイク、ちゃんと乗れるかな。)
ドキドキ。
(エンスト、したくないな。)
ドキドキ。
(お腹、空いたな。)
私は亀戸駅で降車して、駅の出口から歩いてすぐ近くにある文殊亀戸店で、月見そばを食べる。
温かいそばとつゆが、私のお腹を満たしてくれる。
トロトロの生卵が、私の緊張を落ち着かせてくれる。
それを食べ終えると、私はハーレーダビッドソン亀戸店に向かう。
そば屋からバイク屋までは、歩いておよそ十分だ。
この十分が、私にとって、とにかく長く感じた。
東名高速道路で、海老名SAから名古屋に向けて運転する時に感じる長さに酷似していた。
もちろん距離で言うと、明らかに後者の方が長いのだが。

バイク屋に到着する。
バイク屋の店長が、満面の笑みで私を出迎えてくれる。
店長「長らくお待たせしました。もう早くバイクに乗りたくてウズウズしてるでしょう?」
私「はい。」
私のドキドキとウズウズは、間違いなく彼に伝わっていたに違いない。
店長からバイクに関する書類を私は受け取るが、もう私の「バイクに乗りたい!」熱は、おそらく四十度を余裕で超えていたであろう。
店長「さあ、バイクとご対面しましょうか。」
店長はベテランなので、この手の類、つまり客がバイクに出会う瞬間を何度となく立ち会っているはずなのだが、彼の表情を見る限りでは、この瞬間が、彼はとても好きなのがひしひしと伝わってくる。
二人とも楽しそうだ。
まるで小学校低学年の頃、初めて自転車で遠出する、あの時のドキドキとワクワクしている子供たちのようだ。
バイク屋の隣は駐車場(ビル全体が管理している駐車場と見受けられる)で、数分後に店長がバイクを押して私の方に向かってくる。

そのバイクは、黒くツヤツヤしている。
限りなく黒に近い黒色だ。純度百パーセントの、老若男女、誰が見ても「黒ですね!」とお墨付きを持って言える黒色だ。
ハンドル、マフラーは銀色だ。やはりツヤツヤしている。
降り注ぐ太陽の光を、このハンドルとマフラーが浴びたら、さぞかし気持ち良いのだろう。
大きい。黒銀の乗り物だ。
ハーレーのことを鉄馬と表現する人々がいる。
なぜか?
その答えは、乗れば分かる。
黒銀の鉄馬を、店長は私に見せてくれる。
店長「どうでしょう?格好良いでしょう?」
私「はい!」
私はこの時、中学生の吹奏楽部、マーチングバンドでキツい練習を受けていた熱血学生の如く、店長が丁寧にしてくれたバイクの説明に対して、ひたすら「はい!」しか言葉にしていなかったことを記憶している。
店長が、エンジンの掛け方を説明してくれる。
この瞬間を、私は決して忘れないであろう。

ズゥーッシャッシャッシャッ、ドゥルルン!
ドゥッドゥッドゥッドゥッドゥッ

まるでその生き物は、今まで静かに眠っていたかのように、そしていきなり飛び起きたかのように、初めて生命を宿したかのように、

目覚めた。

そう、黒銀の鉄馬は、私のために目を覚ましてくれたのだ。

黒銀の鉄馬「待たせたな。」

私がイメージするそれの声は、映画「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」に登場するバードマンの声の低さと、映画「ダークナイト」シリーズに登場するバットマンの声の掠れ具合を混ぜ合わせて、映画「ヴェノム」に登場するヴェノムの声の響きを足すと、ようやく完成する。

つまり一言で言うと、カッコいい。

私は、黒銀の鉄馬に跨る。
重い。それは千八百CCの排気量なので、重い。
黒銀の鉄馬「オマエはオレを乗りこなせるのか?」
試されている。私は試されている。
このような対話をしていると、店長が私に促す。
店長「京葉道路のどちら方面に行きますか?」
私「新宿方面です。」
店長「でしたら、千葉方面に出てから、すぐに左折して、直進して、突き当たりを右折して、信号を右折してください。」
私「有り難うございます。」
私はたどたどしくハンドルを少し右に傾けて、アクセルを回して、クラッチを少しずつ緩めて、ゆっくりと発信する。
京葉道路に出て、店長の指示通りに走っていると、右斜め前方にバイク屋が見える。
店長が手を振って私を見送ってくれている。
私は右手で手を振り返す。
そして私は、新宿方面へと向かう。


最終章
ジロー

私は、黒銀の鉄馬をジローと名付けた。
そう、今は亡きジローだ。
ジローは、私がアメリカで語学留学をしていた二〇〇九年十一月四日に亡くなってしまった。
当時、母親から、
「ジローが息を引き取り、星になりました。」
という連絡をもらった。
日本とアメリカの時差は十六時間なので、(勿論、時刻にもよるのだが)日本の十一月四日は、アメリカの十一月三日にあたる。
私の誕生日は十一月三日だ。
ジローは、私が誕生日を迎えた後、星になった。
なぜ母親が「星になった」という表現を用いたのかは私には分からないが、このような表現を用いた彼女を、私は尊敬している。

ジローは、最後の最後まで、私のことを想ってくれていたのかもしれない。

私は今でも悔いている。この文章をこうして書いている今も悔いている。
何に対して悔いているのか?
それは、私がジローの息を引き取る姿を見られなかったからだ。
ジローのために、一時帰国をするとういう選択肢が私にはあったはずなのだが、私はそうしなかった。
そうしなかった私自身に、私は悔いている。
あの時、タイ・バンコクのあおぞらマルシェで、初めて出会った気持ちを忘れてしまったことに悔いている。
タイ・バンコクに住んでいた時、私は家の中でジローとよく遊んでいた気がする。
日本に帰国してからジローと散歩していたのだが、私も彼も、狭い歩道と行き交う多くの車に辟易していたと思う。
私が成長してゆくにつれ、私と彼の散歩の頻度は減っていった。
それに反比例して、私と彼の心の距離は遠のいてしまった。
彼が老いてしまい、彼の目が白内障になり、視覚が弱まった時、私は彼を撫でようとしたのだが、彼は私の手を噛んだことを、今でも記憶している。
彼が取ったその行動は、私と彼の間にできた壁を物語っているのかもしれない。
痛かった。手が、痛かったのではない。

もちろん、ジローは黒銀の鉄馬ではないし、カッコいい声は発しない。
それはただのバイクであり、機械であり、物質だ。事実、それ以上でもそれ以下でもない。
それの声が聞こえるだの、黒銀の鉄馬と表現するだの、ジローと名付けるだの、この一連の空想は、私のただの自己満足と偽善に過ぎないであろう。
しかし、ここからは私にとって興味深く面白いところなのだが、一般道路と高速道路を、私はその物質を運転していると、不思議なことに、私の空想が現実となるのだ。
これはおそらく、バイク乗りにしか分からない感覚であろう。
つまり私が言いたいのは、道を、その物質と共に走ることにより、風を、太陽を、それに浴びせることにより、カッコいい声を発してくれて、黒銀の鉄馬になり、ジローとなるのだ。

もう、誰も私を止めることはできない。
そして同じく、誰もジローを止めることはできない。
私たちは、あの時に戻ることができるから。
今度は、ジローより先に、私が星になるかもしれない。
もしくは、その逆もあるかもしれない。
それは、誰にも分からない。
私とジローは、走り続ける。
最後の最後まで、走り続ける。
呼吸が、息ができなくなるまで、走り続ける。

どこまでも。

ジローと共に。