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4.子どもと死

誰でも子ども時代に一度は、死について考えるものかもしれません。

植物状態、って言い方、ご存じでしょうか。

事故や病気などで大脳が正常に機能しなくなり、意識が無く寝たきりになっている状態のことです。

生きてはいるけれど自発的に動くことがないので、植物になぞらえてそう呼ぶのです。

なかなか怖い呼び方ですよね。

漫画『みどりの炎』の植物人間

少し脱線するのですが、漫画のお話しをさせてください。

『ガラスの仮面』で有名な美内すずえさんの初期の作品に「みどりの炎」というホラーがあります。(初出:別冊マーガレット 1973年(昭和48年)9月号)

舞台はアメリカ。学生キャロルは夏休みを利用して結婚したお姉さんを訪ねる旅に出ます。お姉さんは親の反対を押し切って駆け落ちして家を出て、砂漠の中の町に住んでいるのです。大好きなお姉さんとの再会に胸をときめかせるキャロルですが、6年ぶりに会ったお姉さんはげっそりと痩せ、かつての美貌の影もありません。町は陰気で、どうも様子がおかしい。この町、何か秘密がある。

まず、砂です。

海岸から吹いてくる風が砂を運んで、町をどんどん飲み込んでいきます。学校や家々を破壊し、中に雪崩れ込んで来るのです。それだけでなく、まるで意思を持って自ら移動しているかのように、シャワーや、密室でハンガーにかけていたポケットに侵入してきます。

次に、森です。

増え続ける砂に対抗する唯一の防御は、町の東にある森です。この森が、町を守っている。でもお姉さんの夫である義兄アントンはこの森に近付くことを厳しく禁じ、少しでもキャロルが森のことに触れると、怒りだします。

何の事情もしらないキャロルは、森を広げるために挿し木しようと家に持ち込まれた森の木の苗木をうっかり折ってしまうのですが、この木、なんと、流血するんです。傷から、血が流れるんです。

そして次第に物語は、この森を構成している木々は、死んだとされて葬式まで出した人々が実は死んだのではなく植物に姿を変えた、変えさせられた、慣れの果てなのだ、という秘密を明かにしていきます。

禁じられた森に分け入り、人の顔を持った木々を目の当たりにしたキャロルが、そこで、

「植物人間!」

と言うんですね。恐れおののいて。

私はこれを子どもの頃、ヤマハ音楽教室の待合室で読みました。

この音楽教室、怖いマンガばっかり置いていまして、手塚治虫さんの『ブラックジャック』とか、ずらーっと取り揃えていました。

私は小学校3年生までこの音楽教室に通っていて、レッスンの前に夢中になって怖いマンガを読んでいたんです。

私の恐怖心の根幹は、ヤマハ音楽教室の待合室で醸成されたような気がします。絶対音感・相対音感だけではなく。

植物人間のお見舞い

ところで、実は私は小さなころに植物状態になった人のお見舞いに行ったことがあるのです。

どのようなつながりの親戚なのかわからないのですが、お母さんは「遠い親戚」と説明していました。

直接付き合いがあるわけではないけれど、東京の病院に入院しているので、遠くにいる他の親戚のために代わって見舞いに行かなければいけないということで、母と出かけました。

若い男の人だったのですが、事故で植物状態になり、ずっと意識がなく、眠っているとのことでした。

ですので見舞いと行っても、その人に会いに行くというよりは、付き添いの人たちへの陣中見舞いのような意味合いだったのだと思います。
ところで病人の付き添いというと先入観でしょうか、母親とか、奥さんとか、女性的なイメージが強いと思います。男性だったとしても、カジュアルな 服装で家庭的な姿を思い浮かべませんか?

でもそのとき病院にいた人たちは、皆灰色のスーツを着ている男の人たちでした。ちょうど子どもの頃読んでいた、『モモ』に出て来る男たちのようにモノクロでした。彼らがだれで、どうしてそんな服装で集まっていたのか、理由はわかりません。

不思議なことに、肝心の植物人間の若い男性の姿も、記憶にはありません。

覚えているのはただ、食べるよう勧められた高級なアラレの詰め合わせのことと、都心の大病院の厨房で大量の粥を一度に炊く溺れるほどの甘い香りが、お母さんの肌の匂いに似ていたことだけです。

植物人間という言葉の印象、『みどりの炎』というホラー、そしてスーツの男たちに守られた植物状態の若い男性。これらが私の中で重なり合い、死のイメージを作り出しました。死そのものというよりも、死と生の境目のようなきわどい場所のことを考えさせたのです。

目覚める植物

ところで、植物状態とは、これは脳死とは違う状態なのだそうです。

植物状態は脳の中でも脳幹は働いています。脳死は脳幹も働かない状態になっています。この脳幹は、呼吸などの生命を維持する機能を司っています。つまり、植物状態は自分で呼吸することができ、脳死状態はできません。

植物状態の人は、目覚めることもあるそうですよ。

数年前のこと。お母さんとのちょっとした会話のついでに、例の植物状態の若い男性のことを話す機会がありました。

「子どもの頃、植物状態の人のお見舞いに行ったことがあったじゃない?」

と私は切り出しました。そして聞きたいこと、話したいことは山ほどあったのですが、お母さんのこの言葉で遮られました。

「ああ!あの人、目を覚ましたのよ。」

「えっ?!」

なんてこと。

私がずっと恐れていた死の偶像、いわば死神は、私の思い込みの産物でしかなかったというのでしょうか。

私が夜の闇やちょっとした心の隙に忍び込む死の恐怖、すなわち彼の幻影におびえているときにも、彼はすたすたと歩いて、働いたり、食事したり、友達と遊んだりしていたのだ、……ということに、私は即座になじむことができませんでした。

今でもなじんでいないような気もします。

その人が誰なのか、いくつなのか、何をしているのか、ショックのあまり確認できていないのですから。

お母さんが死ぬ前に聞いておきたいことのひとつです。

それにしても、植物状態の人の見舞いに連れ出して恐怖を植え付けておいて、その人が目覚めたという一番必要な救いを与えてくれないなんて、実にお母さんらしいな、と思うのです。


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