【感想】 野田秀樹『赤鬼』
キャスト&スタッフ
作・演出:野田秀樹
赤鬼:森田真和
あの女:夏子
トンビ:木山廉彬
ミズカネ:河内大和
感想
開場
シアターイーストの客席は、足音がよく響く。
コツコツ、バタバタ、ダッダッ
劇場中央の四角い舞台の四辺を囲うように並べられた客席。
客席と舞台の間には、透明なシートで隔てられていた。
コツコツ、バタバタ、ダッダッ
どこで見ようか、舞台に何が置いてあるのか。
客席の足音は絶えない。
開場してどれくらい時が経っただろうか。
透明なシートの内側から真っ白な服に身を包み、ホースを抱えた男性が登場。
腰を下ろし、ホースを使って何か作業を始めた。
この男性の登場を境に、四方の捌け口から次々に役者たちが登場。全員が真っ白い服装に身を包む。
様々な小道具を持って腰を下ろし、思い思いに作業している。
ある者はザルを持ち、またある者はバケツを抱え、外側に向かってバケツで何かを汲んでいるー水だ。ここは前面が海で広がっている浜辺なのだ。
コツコツ、バタバタ、ダッダッ
客席側の足音と舞台上の役者たちのアクトが同じエネルギーの強さで共存する時間がしばらく続く。
しかし開演時間が近づくにつれて客席側の足音は薄れ、舞台上の役者たちの存在感が際立ってくる。エネルギーバランスが舞台上にシフトされる。ついに客席は静寂に包まれた。
ダダンッダダンッダダンッダッダッ
ホースが床を打ちつける音が合図となって、舞台上の皆が持っている物を、手を、精一杯鳴らしリズムが刻まれる。
音と共に、地響きが客席を伝う。
誰かが「こんなものは不要だ」と、一蹴も二蹴もいっぱい蹴り上げてどんなに取り上げても、恐らく今シアターイーストにいる誰もが、この空間と時間の共有を渇望していただろう、何ヶ月間も。「共有の芸術」の始まりである。
皆で仲睦まじそうに刻んでいたリズムは、突然大きな悲鳴へと変わる。
赤鬼の登場だ。
舞台上の全員が真っ白な装束に身を包むなか、全身赤色である赤鬼は彼らのなかでは異質に「みえる」。
「鬼は人間を食うんだ」
「〇〇が鬼に噛まれたらしいよ。」
四面に観客がいて「四方向に伝える必要がある」点をうまく演出に昇華させ、村の四方八方でありもしない噂が飛び交う様子を視覚的に描く。だがしかし、誰1人事実を確かめたわけではない。
噂の一人歩き。たった一言の発信がすぐさま広がる様子は、現代のsnsのそれと全く変わらない。この作品の初演って20年以上前だよね…とついつい疑ってしまった。
いくらその手段が変わろうとも、異質なもの・多数派ではないもの・他者から斗出しているものに対して、言葉の武器を向け排除しようとする人間の本質は、変わらないらしい。
そんななか、唯一赤鬼に歩み寄る「あの女」。彼女も村から「淘汰される側」の人間だった。彼女の行動に伴い彼女の弟トンビと、村一番の嘘つきものミズカネも赤鬼と向き合おうとする。互いが理解できるよう努力を重ねることで、彼らは、赤鬼の言語を理解しただけでなく村に来た理由まで知ることができた。
あの女たちと村人の対比が全てを物語る。後者が生み出すものは何もない。
村人たちは、一度でも「鬼側の視点」で物事を考えたことがあるだろうか。
なぜ鬼はこの島に降り立ったのか、「人を食う」という噂に対して何故1人も食われた人がいないのか、見知らぬ生き物が見知らぬ言語で大勢で襲いかかってくる恐ろしさを彼らは想像したのだろうか。
そんな他者への想像力の欠如と不寛容さが際立つ社会が「正しい」としていることは本当の「正しさ」なのだろうか。
あの女がラストシーンで悟る「鬼が人を食べるんじゃない。人が鬼を食べているのね。」がその答えなのではないだろうか。
自分たちと異なる他者をねじ伏せた上に生まれる正義は、正義なんかじゃない。
人が、負の感情を暴力的に他者に向けるのは、相手と対話を重ねることを止めた時であると、この作品は教えてくれている。
そしてこの暴力がどれほどの絶望をもたらすか、私たちは作品を通してだけでなくこの半年間で嫌というほど経験しているのではないだろうか。
カーテンコール
役ではなく、表現者としての彼らが四面一杯に広がり、変わるがわるお辞儀をする。
演じ切った彼らの清々しい表情を見てると、逆に、彼らが表現者として生きる場を与えられなかったこの数ヶ月間に思いを馳せてしまう。
この現実において、彼らこそ、スタッフも含めこの作品に関わった全ての表現者たちこそ、社会から淘汰された赤鬼だったのではないか。
5ヶ月前、国という多数派は、この社会から突然芸術を排除した。人の基本的な生命活動に必要ではない–「不要不急なもの」として。事前に専門家に相談があったり、芸術を生業としている団体に事前通告が来ていたという話は、今まで一度たりとも聞いたことがない。芸術を支える基幹となる企業に相談があったのは、自粛要請が出てから1ヶ月以上過ぎてからのことだという。
たった一部の人たちが、自分たちの生活を基準にして「必要な産業」「不必要な産業」に線引きをし、相手の言葉も聞かずして誰かの生きる場を閉ざす。もしかしたら、彼らが閉ざす決断をした「不必要な産業」がある人の生活を壊すことにさえ気づかなかったのかもしれない。
2、3月には、苦渋の決断で自分たちの生活を守るために開催した公演も随分非難を浴びたそうだ。非難をした人たちは、1つの公演を中止にしただけで数百万〜数千万の赤字が出てしまうことを、その先の補償が何もなかったことを知っていたのだろうか。
まるで兵糧攻めに遭うかのように、表現者たちは社会から淘汰された。
劇中で登場するアベノマスクは、そんな社会を生み出した政治に向けた野田秀樹による最大の嫌味だろう。
これらの、一方向から物事を捉える視野の狭さ、想像力の欠如がいかに愚かで危険なことなのか。そのことを教えてくれるのもまた芸術なのだ。
今舞台上で輝く彼らも、この数ヶ月間排除され、踏みにじられ、多くの地獄を見てきたことだろう。私は、彼らがあの女のように絶望に襲われながら海の奥底に沈まないでいてくれて本当によかったと思っている。
この作品には、このご時世でも劇場に訪れる全ての他者を受け入れる自由さと寛容さがあると信じ、そしてこの作品を観劇した全ての観客が、寛容さと想像力を持って他者と向き合えるようになることで、社会が少しでも良い方向に傾くことを切に願う。