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もし100人の来世を設定するなら

こんにちは、領です。

自分の来世を100人分パラメータ設定するゲームがあったとします。
初期設定だと所得はパレート分布になります。
上位20回の人生が富の80%を独占し、その他の人生の富は急激に減少し、下位20回の人生は生きることが困難な状況になります。
上位20回の人生の中も富が偏っていて、実質一回の人生に富のほとんどが偏ります。

私は、これは嫌です。
どうせなら、100回の人生平等に分配したいです。
この100回の人生は、【自分】が生きることになるので、1回の人生だけ富が集中しても無駄になります。

このゲームは、来世を設定するもので
現世⇒来世1⇒来世2⇒来世3⇒⇒⇒⇒⇒来世100、という図式です。
これは過去から未来の方向に輪廻転生する人生の軌跡を取り出したものになります。

この軌跡に対して水平に他者の人生を取り出して並べてみます。
現世-現世1-現世2-現世3―――――現世100

先頭の現世に続く、現世1~現世100までは、現在この世に存在する他者の人生です。

現世⇒来世1⇒来世2⇒来世3⇒⇒⇒⇒⇒来世100
現世-現世1-現世2-現世3―――――現世100

時空を俯瞰してみると、この二つの図式は、時空の中でどのように見ているかの違いでしかなく、この二つの図式は平等に見ることができます。特定の方向がないという感じです。

現世⇒来世1⇒来世2⇒来世3⇒⇒⇒⇒⇒来世100、こうやって見ること。
現世-現世1-現世2-現世3―――――現世100、こうやって見ること。
これらの見方は同じ操作という感じです。

何が言いたいかというと、毎度同じことを書きますが、
現世⇒来世⇒来世はもちろん【自分】です。
現世に存在する他者も同じ質で【自分】ということです。
どんな角度から時空をスライスしても、【全てが自分】という構造になります。
「自分かもしれない」「自分と思いこむ」ではなく、他者はそのまま【自分】です。
「誰かの来世」という構造ではなく、この世の人生全てが自分という構造です。
もともと一つだったものが枝分かれしてそれそれ個人の人生があるのではなく、単純に今【全てが自分】です。世界はそれが可能な構造をしています。

ここでちょっと、悟りについて書いておきます。
「この世の人生全てが自分という構造」を考えると、輪廻転生は特定の個人が一本に繋がる構造ではないということです。
水のように単純な干渉ではなくて、フラクタル、カオス、干渉・・・こんな構造を伴う形で展開し、その響き合いの結果、人の形が現われます。そこに、ここからここまでが「私」で、そこからそこまでが「あなた」と分けることができない構造です。と、こうなると「ある個人が、個人だけの才能で解脱する」という構造ではないことがわかります。一切が関係してそこに「悟り」があるだけです。

そもそも「解脱」という構造はナンセンスです。
存在が時空ごと滅するゼロ地点は、必至のものになります。そこが悟りの境地です。「解脱する個人」という構造はありません。この世のシステムの外に出る個人はあり得ません、個人そのものが滅する地点というだけです。干渉した結果、個人と時空が滅します。波は打ち消し合ってゼロになりますが、波は保存されるのでまた波が展開します。波と同じように、悟りのゼロ地点を過ぎて、また個人は展開します。
悟りは、ただのゼロ地点で、特別な存在になるわけではありません。
悟りの話はこのぐらいに(*^-^*)

時空に対して垂直に考えても水平に考えても、【全てが自分】で考えてみると、自分の来世100人の所得パラメータを平等にしたいと思うことと、現在存在する全ての人が平等であって欲しいと思うことは全く同質の思考になります。

どんなに「今だけ・金だけ・自分だけ」という思考に伴う優越感などに快楽を感じるとしても【全てが自分】に屈するしかありません。当たり前の道徳を持たざるを得ません。
現在この世に存在する人々に対して、来世の自分ぐらいの思いを向けて普通です。自分だからです。
【自分】に不可分に付与される【観】(確かに存在が有であるとする物理作用) は、唯一として存在するので【全てが自分】が可能です。(【観】は純粋な気づきです)【観】は、時空を越えた情報であり時空に遍在します。簡単に、無次元の点の物理作用が【観】です。自他不二・天上天下唯我独尊(存)は、物理的構造によるものです。

天上天下唯我独尊を人間から考えてみると永遠の孤独でゾッとします。そんなことを考えると気が狂いそうになります。

他者という分離があって、【全てが自分】という思考を常識として持ち込めれば、いいとこ取りだと思いませんか?

と、こんなことを書いていますが、最近、『人新世の「資本論」斉藤幸平』という本を読んだとき初めて、他の国の犠牲で恵まれた生活をしていることを自覚しました。
私は旅行や観光に興味はないし、車も所有していません。食に興味はないし、服にも興味はないです。
何が言いたいかというと、読書と考えごとが趣味の私は、地球に優しい方だと思っていたんです。でも、本を買ったり、パソコンがあってネットもして、暖かい布団で寝ることができることも、いつでも新鮮な食材が手に入ることも、他の国の犠牲があってのことだったんだと自覚しました。私は、犠牲を強いている側だったなんて・・・。あまり考えたくなかったのかもしれません。テレビで子供がゴミの山の中で売れそうなものを探している姿を見たことがあります・・・。

まず、私にできることは、【全てが自分】という思考に一票入れることです。
砂山は最後の一粒で雪崩を起こします。一粒一粒落としていきたいです。ブログの一記事が砂粒一粒です。時空の隔たりを越えて思考の砂山は育ちつづけているはずです。
現実世界ではなく、思考の世界に大激変が起きて欲しいです。

囚人のジレンマについて、自分ならどうするか。
二人の囚人AとB【数字は懲役年数】
A黙秘:B黙秘⇒A【2】:B【2】
A自白:B黙秘⇒A【0】:B【10】
A黙秘:B自白⇒A【10】:B【0】
A自白:B自白⇒A【5】:B【5】

囚人A・Bのどちらの人生も【自分】と考えます。
懲役年数は、囚人A・Bを足し合わせて考えれば良くてジレンマは生じません。二人とも黙秘することで一番懲役年数が少なくなります。
【全てが自分】で、行動を選択すれば良いだけです。

「今だけ・金だけ・自分だけ」という思考がある程度幅をきかせている時代から、「全体の利」を考える時代になるのかな?

【全てが自分】ということが、物理的に証明されると良いのにな(*^-^*)
この一つの人生が唯一の人生ではありません、全て自分が当事者として経験する人生です。目の前の他者は、そっくりそのままに自分が生きることになる人生のサンプルです。

それは「死んだら無になる」「たった一度の人生」という思考から解放される救いのようなものでしょうか?でも、ニュースを見ると残酷なことばかりです。死んで滅することは許されません。自分だけ解脱することは許されません。
でも「世界は残酷だ」というとき本当に残酷なのは、残酷が存在しないと慈愛も存在しないということです。しかも、残酷と慈愛の展開は、数式に従っていて自由意思は存在しません。

殺しにかかる人、殺される人・生かしてくれる人、生かされる人、相依相関して存在を現わします。何一つ欠けることはできません。児童虐待さえも・・・。そこに私たちが思うような自由意思は存在しません。これは一切皆苦です。

一切皆苦という思考もただ数式に従って展開します。選択肢が無限にあってその一つ一つに自由意思という情報がくっついていれば、自由に行動していると思うことができます。

例えばこの世の富の96%を握って、世界を牛耳り民衆を操っていると思っても、数式に従っているだけです。79億回(地球人口)に1回の超富豪の人生です。【自分】のために、手に入れられるとしても足るを知ることは重要です。独占しないで分配する。

一切は相依相関し振動していくので、「自分のために全体を考える」という思考が展開してもいつかは移り変わっていきます・・・。「全体の利」を優先する時代が来たとしても、いつかは反転していきます。
「至福1,000年」という言葉を目にしたことがあるけど、1,000年だけです。
「1,000年だけなんだ」と思いましたが、永続するものは不可能です。

地球で産出されるもの、この世に存在する「知」は、個人のものという構造が薄くなりますように。

ふと思ったのは、明晰夢と悟りのことです。
私は、夢の中で夢と気づくトリガーとして、物理法則を破っているかどうかということを使っていました。
空を飛んだり、場面が移り変わったり、怪物に追いかけられたりすると、「あれ?」と気づきます。
逆に、悟りは、この世があまりにもきっちり物理に従いすぎている。光速度不変の原理や、光と電子ともに、粒子性と波動性をそなえている所までは、「そうなんだ」となります。

でも、自然現象、ガラスの破片、株価の変動、所得の分布、本の売り上げ分布、映画の売り上げ、論文の引用された回数、ネットのリンク数、人気投票、生体内の相互作用、戦争の発生頻度と死者数・・・この世はいたるところべき分布だらけです。自然だけでなく人の心理や行動もこのべき分布になる普遍的な法則に従っていると、「あれ?この世って何?自由意思って何?」となります。
「囚人のジレンマ」も実際の人間で実験した結果が「え?予想外」というようなものだったけれど、その結果が量子力学で説明できるとか、「あれ?この世って何?自由意思って何?」となります。
世界的な事件、出来事で乱数発生装置が偏ることは、人の心理と時空が不可分なもので、人は時空にポンと独立自存に置かれたものではない「あれ?」と思います。

自分の現実認識に対する疑念が生じます。そこで【自分】を観照していくと、ある刹那【自分】が滅してしまう。【自分】というものがどういうものか理解します。

【自分】という現象は、法に従って生成し消滅する仮の模様みたいなものです。
どんなに崇高で美しくて人々に救いをもたらしたと思わせる思考も仮の模様です。無限に上昇するような霊性というものはありません。そこに私たちが思うような自由意思は存在しません。

日常の範囲では、自由意思が存在すると思っていて不都合はないです。解脱ということが不可能であるとき【全てが自分】という思考で生きたいです。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。

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