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増上慢卑下慢。

今日は焼肉の日。

昨日はお不動さまの日だったわけですが、

日本中のあちこちの密教寺院で護摩焚きまくった

次の日は焼肉の日、ってのもなんだか趣深いものがあります。←ある?


昨日は祥鈴庵でもお不動さまのご供養をいたしましたよ。

お不動さまは大好きな仏さまのお一人なので喜んでやっておりました。

その時になんかこの言葉が浮かんだわけですね。

「増上慢卑下慢」。

 

以前増上慢ってこういうことよ、みたいなことを

書いたことがありますけども。


増上慢というのは日常的にも使う単語ですが、

卑下慢というのはあまり使われませんね。

これは、自分を低くすることによるうぬぼれのこと。


低くするのにうぬぼれてるというのはちょっと

分かりにくいですが、

自分より優れている人より自分は劣っている

と言うことで本来の実力をくらませる

あるいは

へりくだって見せられる自分は優れているという心を持つ

ということ。


回り回った表現をしているけど

結局自分てすごいとどっかで示したい心、

といってもいいかもしれません。


人として生まれて自尊心を持ってない人はいませんし、

どこかで自分は大したものだと思いたい気持ちは

誰にでもあります。


そして、健全な自尊心を持つということは

大切なことでもあります。


増上慢が自尊心と

卑下慢が謙虚さと

どこが違うかというと、

他人との比較があって自分を上げたいという

気持ちがあるところ。


傲慢な者というと、仏教ならデーヴァダッタ、キリスト教ならルシファー。


デーヴァダッタはお釈迦さまのいとこといわれています。

はじめは弟子として従っていましたが、教団から離反しました。

ルシファーは天使の中の第一人者でしたが、

神さまが人間を天使より重視するのに耐えられず堕天しました。


どちらも自分の上に誰かがいることに耐えられないということ。


でもそれは自分の了見のなかの序列によって勝手に自分のなかで作りあげたもの。


驕慢を収めるために必要なのは、自分のその了見を自分の剣で切ること。

自分の了見の狭さを変えることができるのは自分だけです。


そして、自分の素晴らしさは他人との関わりで

決まるわけではありません。

比較のなかで生きている限り自分自身の価値を本当に

信頼することはできません。


その指標となるものを検証する時には、人間的な自分だけの視線だけでなく、時間空間次元的にもいろんなところからの目を取り入れておきたいです。



 

 

 

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毎月24日はお地蔵さまのご縁日。

この日に小さな法要を営み、

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