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山の修行、里の修行。

先日立て続けに久しぶりにリアルで友人に会う、
ということをしてました。

メールやzoom、そのほかのツールではそれなりに
連絡をとって話し合ったりしてたのですが
やはりリアルで会うということの情報量の違いには
改めて驚きます。

親しい、大好きな、共感を持ってともにいられる、
そんな人たちとリアルで会えない、というこの状況が
本当になんというディストピア的世界だったのか、
と考えてしまいましたよ。

それでも花は咲いていますよ。

山の修行、里の修行というのは修験道の方が
よくおっしゃる言葉ですね。

山に入って山岳修行や水行滝行をしたり、
山に籠って仏道や修験道の修行をすることを山の修行。

里に降りてきて人と交わり、
お加持をして薬を分けてあげたり、
山の修行で得た境地を人々とシェアしたり、
社会との交渉をしたり寺院の護持のため勧進したり
布教などの働きかけをしたりするのを里の修行と言います。

どちらかではだめで、両方をするのが重要とされているのですね。

山伏が山に入るのは、自分の修行のためなのは
もちろんなのですが、その修行をするのは
里にすむ人たちの要請に応えていろんな方法で
修験道のやり方で人々の役に立つため。

里に山の霊力を持って降りてきて、
その霊威を衆生の救済のために使うためです。

里にだけいるのでは、山伏の持つ力は徐々に減衰してきます。
なので時々山の修行をしてそれをチャージしてくるのですね。

しかし、山にだけいるのではただ自分一人のために
修行しているだけで、誰の役にも立つことができません。

でも、修験道を志すような人というのは黙って行をするのが
大好きという方がほとんど。
こういう方はどちらかというと人交わりが苦手だったりします。

修験道も大乗仏教の要素を持っている宗教ですので
衆生救済が最も重要で主要な目的。

衆生のために働くには、人と交わり、人と触れ合い、
どうしても人里にいなくてはなりません。

人間関係や人間の感情の機微、願いを叶えたいという欲望や
渇きを目の当たりにしながらその人たちのために働き、
それも宗教者としての慈悲や智慧によってその人たちを
より良い方向に導く必要もあります。

これは僧侶も同じです。
僧侶はただ仏さまと向き合っていればいいのではなく
人々とも向き合って仏さまの智慧、仏教の教えを
みなさんにお伝えしていかねばなりません。

以前拝みっぱなしのお坊さんを羨む仲間の話を
書いたことがありますね。

行だけしている時間がすごく贅沢だった、というお話も。

里の修行の方がつらい、と言われるのは
人間を相手にすること、人間の欲望と向き合うことが
複雑であまりにも一筋縄ではいかないから。

現代では昔のように、国家や領主が扶持をくれるということも
寺領からの上がりで寺院を維持することも無くなりました。
そういう点で、里の修行はさらに厳しくなっているとも言えます。

そして在家の方が行っている日々の生活はそのまま
里の修行です。

どちらが厳しいか、どちらが楽なのか。
どちらが楽しいのか、どちらが苦しいのか。

それはもうそれぞれの人のそれぞれの資質による
としか言えませんけども。

でも、どちらもやった分だけ価値があるし
行ったことによって自分が磨かれることに変わりはない、
のですよ。

あっちの方が良さそうだ、と目移りするよりも
自分の今いるところでのことに集中する方が
効果は断然高くなる、というのも覚えておきたいところです。

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