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自性清浄。

人はけがれてるのか?そうじゃないのか?
っていうのは、けっこうよく考えてみた方がいい問題のように思います。

 特に日本人は穢れ感が独特なのですね。
その事については自覚的である方がいいかと思います。

白蓮華は自性清浄を表します。

仏教はインド由来の宗教です。
それが中国を経て日本に入ってきています。

ということは、最初のインドの考え方や感覚、
西域や中国の考え方や感覚、日本の考え方や感覚が
その過程で入り交じっているのですね。

宗教を考えるとき、その宗教が教える善悪の概念は大きなポイント。
宗教とは「よりよく生きる」ためのものなので、
これが良い、これが悪いを示しています。

宗教はコミュニティの安定も志向していますので、
コミュニティの性質もそこで理解できるわけです。

地域を限ったところだけで信じられているものと、
世界宗教とでは示される善悪の指標が多少異なります。

日本でいうと、神道は日本限定。
仏教は世界宗教である仏教が日本で受け入れられるための
ローカライズを経たものです。

以前書いたことがありますけど、日本人にとって「穢れたもの」というのは
水で洗い流せるもの。
ですが水がそこまで豊かではないインドや中国では、
「穢れたもの」を清めるやり方は異なります。

また場を清めるのに日本は塩を使いますが、
中近東や地中海地域では塩を地に撒くのは二度とその地に
芽生えがないようにと滅ぼすために行います。

当たり前が通用するのは、地域と文化を共有する人たちの間だけです。

ですので、地域的な宗教の方がルールは細かく、
普遍的な宗教の方がざっくり大くくりです。
キリスト教と仏教のメインの戒律は10個くらいしかないですしね。
それでいうとイスラム教は世界宗教でありながら、ローカルな性質を
保っている宗教なのかもしれません。

仏教は人間自体が穢れているというよりも、この世界が
拠り所のないものでできていて苦しみが続くだけなので
その世界から解脱するために行うことを教えます。

密教は人はもともと清らかなものであるけれど
煩悩や迷いがその本質を覆い隠しているので
穢れているように見えると教えます。
なのでその煩悩や迷いを除いて本質を表すことを目指します。

神道の場合、日々の暮らしのなかに穢れがいろいろあり
それに触れることで否応なく穢れるので折に触れ祓うことが必要と教えます。

キリスト教ではアダムとイブが神さまの言いつけを破って
原罪を得て楽園を追放されていますから、人間はもともと穢れています。
キリストの贖罪を信じキリスト教の教えを守れば
最後に救われることになっています。

イスラム教ではイスラム教の教える生活規範にのっとって暮らすことが
天国にいく要件です。
彼らにとって穢れているものとはイスラム教徒の体や心を損なうもの。

人間は食物連鎖の上位にいるので、他の生命を食べて生きています。
場合によって生きるために同じ人間を蹴落とすこともあります。
ですが、その事を理解できる知性を持っています。

ですので、どこかでそれに対する罪悪感や罪障感を抱きます。

人間が穢れている、と思う根元は恐らくそこにあります。
しかしそれは人間が他の生命への慈悲を持っていて
殺して食べなければならないこと
蹴落として生きていかねばならないことへの
悲しみを抱いているということ。

人が性善か性悪かは、それを思うと性善である気がします。
状況や環境によってそれが十分に発揮できないことが
あるだけなのかもしれません。

人間の本質が本来清浄で、如来と同じものでできているのだ
と思うと、私たち自身が本来価値あるものだということが
信じやすいのではないかと思います。

人と生まれた以上、どんなに見た目や能力が違っても
そのことに差異はありません。

全ての人の本質が如意宝珠であり、白蓮華であり、仏であるということ。
違いがあるとすれば、それを理解しているかどうかということ、
そして今の人生でよりよくなろうという意志と行動が持てるかどうか
ということ。

それは競争でもなく、比較でもなく、孤独な努力でもなく。
一人一人の努力も集団の努力もお互いの協力も、
最も良い方向に向かうためにあった方がいいもの、だと思うのです。

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