「生存許可」を求めて

こうしてまとまった記事を書くのは久しぶりです。

以前、「自己肯定感」についていくつかの記事を書いたことがありました。
当時の私は、自己肯定感について「自身が抱えている問題を概ね把握している」と認識していました。
しかし、今回自分が考えていたより根深い問題であったということに気づいたことで、記事を書こうと思いました。

「愛」の欠如

記事を書いていなかった期間にしていたことの一つに、「パートナー探し」があります。

当初の想定通り、活動はうまくいっていません。
しかし、そんなこなとなどどうでもいいほどの問題に、ある時気付いたのでした。

なぜ私は、好きになってもいない相手に去られて泣いているのだろう?

好きな相手に振られて泣くならわかる。それは泣く。

私は「愛し合える人」を探していたはずだ。少なくとも私としてはそう考えていた。

それなのに、「自分が相手を愛すること」を考慮していなかった。

私は、何のためにパートナーを得ようとしているのだ?

潜在意識下での行動目的


謎を解くヒントは、落ち込み方にありました。
身体が重く、何もする気になれず、食事も喉を通らず、ただ布団に横たわる時間を過ごす。
こみ上がるのは、悲しみと悔しさ。そして、このまま死ぬのだという恐怖。

この感覚には既視感がありました。

模試の成績が悪かったとき
学校行事で大きな失敗をしたとき
就職活動で、最終面接まで行って落ちたとき
仕事ぶりを評価されなかったとき

その時の感覚と同じだったのです。

その正体は「自分の能力への絶望」そして「死の恐怖」
能力がなかったとして、誰かがナイフを持って襲ってくる!というわけではないにもかかわらず、私にとって2つの感情はセットとなっていました。

そして、こう思うのです。
「人間になりたい」

ここでいう人間とは何でしょうか。
私は自分が生物学的ヒトであることを疑ってはいません。
では、生物学的ヒトと「人間」の違いとは何でしょうか。

潜在意識下で持っていた「人間」の条件

私が定義している「人間」とは何でしょうか。
「人間」であるためには何が必要なのでしょうか。

まず、私がかつて「人間になりたい」と思った時にどう考えていたかを調べることにしました。
私のスマートフォンを漁ると、「人間」について書かれたメモが残されていました。

人間は笑顔を絶やさず
いかなる苦難にも耐え
常に道理に従い
決して忘れることなく
すべての人と円滑に交流し
すべての人の期待に応え
いかなる時も孤独でなく
いつまでも幸福である
それが「人間」なのだと思っていた。

頭では「そんな人間はいない」と知りつつも私はその事実を拒否し続けた。「人間」が完璧で幸福でないとするなら、いつか「人間」になれると期待して送ってきた人生に何の意味もなくなってしまうと思ったからだ。
2016年4月17日のメモ

当時の私がかなりのコンプレックスを抱えていたことがよくわかる文章です。
私もこの6年でまったく成長していないわけではないですから、今もこう思っているわけではありません。  
今の私が考える「人間」の条件は、このような表面的なものではなく、もっとシンプルなものです。

「人間とは、生物学的ヒトのうち、無条件、無期限の生存許可を有する者のことである」

そして、この結論から、私の持っている価値観が導き出されました。

「みんな無条件、無期限の生存許可を持っているのに、私は持っていない(自分のほかに生存許可がない者がいるかどうかは知らない)

「生存許可のない者は、自分の価値を証明して、仮の生存許可を得なければならない」

「価値の証明を達成すればしばらくは仮の生存許可を得られるが、しばらくすると失効するので新たな価値の証明に取り組まなければならない」

「志望校に合格すること」
「学業に打ち込むこと」
「就職すること」
「仕事をこなすこと」

今から思えば、すべて自分の価値を証明し、仮の生存許可を得るためにしていたのではないかと感じます。
そして、今の価値証明手段が「パートナーを得ること」だったのです。

自分がこういった価値観を持つ、いわゆる
「無価値感のある人」
ではないかと考えたことは、これまで何度もありました。
そのときは、世間一般における「無価値感のある人」の例を参照した結果、
「私は万事完璧にこなすべきだとは思っていない」と否定していました。

実際のところは

価値証明の対象以外は、できようができまいが気にしていなかった

だけだったのです。

終わらない苦行

さて、私の持っている価値観がわかったところで、次の問題に移りましょう。
もし仮に「パートナーを得ること」に成功して、価値を証明し生存許可が得られれば、価値観の問題は解決するのでしょうか。

しません!

パートナーを得た後の未来を、私は想像してみました。
きっと最初は楽しいでしょう。でもそれは一時のことでした。

うまく関係を続けて結婚すること

結婚生活を円滑に営むこと

子どもを持つこと

子どもを健康に育てること

子どもが社会的成功を収めること


…………


うまくいったとしても、
「価値の証明」という千尋の谷を飛び越え続けなければ、生存許可を保つことができない
そのような未来を、私は見てしまいました。
どこまで行っても、求めている安らぎは得られないのです。

もうパートナー探しどころではありません。
「価値の証明によって仮の生存許可を得る」という生き方を続けていく気力は、完全になくなってしまったからです。
今後の人生のために、どうにかして他の生き方を見つけ出す必要があります。
厄介にも生存本能は健在ですから、私はまだまだ生きなければなりません。

これから、生きるためには自分の生存についてどのように認識すればよいか、考えてみたいと思います。

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