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アドラーは悪くない : 通俗的心理学に思うこと

私は嫌いな食べ物はいくつもあるのだが、嫌いな人となるとあまり思いつかない。

苦手な人はいる。しかしその人が嫌いかというと、そうでもない。「自分と相容れない」と「嫌い」というのは、まったく別の問題だからだ。

自分と相容れない主張をする人も、主張するからにはそれなりの事情があるのである。そのことを思えば、犯罪をしているわけでもない限り、むやみに嫌うことはできない。

でも私は、アドラーが嫌いだった。

嫌いだから、避けてきた。

何が嫌いなのか探るために関連書籍を読む気にもなれなかった。


だから、私が嫌いなのが
「アドラー本人」なのか、
「アドラー心理学」なのか、
「アドラーに由来する通俗的アドラー心理学」なのか、
「通俗的アドラー心理学を信奉する人」なのか、
はっきりとはわからなかった。


でも、最近気づいたのだが、

さっき挙げた4つの下に行くほど「嫌い度」が高くなっていくのだ。



アドラー本人には、何の恨みもない。

アドラー心理学にも(これは心理学ではなくて人生哲学ではないか、という疑問はあるものの)恨みはない。

問題は通俗的アドラー心理学だ。

通俗的アドラー心理学を特徴づけるのは、
「何を感じるのかは個人の自由である。だから、自分が何を感じようとも自分の責任であるし、他人に影響される必要もない」
という、「心理的な個人主義」である。

確かに、こういう考え方を実践すれば生きやすくなる人もいるだろう、というのはよくわかる。

それでも、私は通俗的アドラー心理学を受け入れられない。個人的に相容れないだけでなく、これが世に広まってほしくないとさえ思う。

なぜそう思うのか?

さらに通俗的アドラー心理学が嫌いな理由を深く考えてみると、通俗的心理学全体に共通する2つの特徴に行きあたった。

1つ目の特徴は、

通俗的心理学は、自分のことしか考えない。

通俗的心理学は「個人を生きやすくすること」だけを目的としており、個人が考え方を変えることで社会全体がどうなるかはまったく考えない
「嫌われても気にしない」という考えはその人を生きやすくするかもしれない。しかし、みんなが「嫌われても気にしない」と考えている世界は、果たして暮らしやすいだろうか?



そして、2つ目の特徴はより大きな問題であると私は考えている。それは、

通俗的心理学は、しばしば「悪用」される。

ここでいう「悪用」とは、よく言われるような「心理学を利用して自分の欲望のために他人をコントロールする」というものとは、まったく異なる次元のものである。

私がいう「悪用」とは、
社会的な問題を、社会の側で解決する努力をせず、個人の考え方や能力にすべての責任を押しつけるために心理学を利用すること

である。

このような、個人に責任を押しつける風潮は、本来の心理学とは無関係なものである。
しかし、この風潮に合致するように心理学や哲学を解釈し、本を出せば売れるのだ。
本が売れ、思想が広まることによって、この風潮はさらに強化されることになるのだ。

ただ、さっきは「悪用」と書いたものの、本を書く人も悪意があって本を書いているのではないと思う。
「社会に適応できなくて困っている人を救いたい」という純粋な思いで本を書いているのだと思う。

しかし、救えるのならばそれ以外のことは考えなくてもいいのだろうか?
救いたい人以外の人や、社会全体に与える影響はどうか?

今の通俗的心理学者は、第一次世界大戦前の自然科学者のようだ。

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