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言えないかもしれないけど、いま父と母に伝えたいこと。

「はい、イノウくん誕生日おめでとう〜」

暗闇の中、男二人だけでロウソクを吹き消した。決して、おっさんずラブなんて美しいものではない。ただ単に予定が入らなかったのだ。

11月23日、ありがたいことに今年も誕生日を迎えた。11月23日といえば勤労感謝の日なので、毎年祝日。学生の頃はイベントとかぶっててなんやかんやでまわりの友人が祝ってくれたが、社会人になるとその逆だ。もちろん会社は休みなので、「おめでとう」と直接声をかけてもらうことも少なくなり、正直「なんで祝日なんだ」と思ったりもするようになった。

誕生日の思い出といえば、小さい頃に幼稚園や小学校の友達をうちに呼んで親がパーティを開いてくれたことだ。友達同士でプレゼント交換をしたり、人生ゲームをやったりしたのを今でも記憶の端っこで覚えている。

誕生日パーティでは母親がいつもケーキを手作りで作ってくれた。イチゴが好きな自分のために、毎年出てくるのはイチゴのホールケーキ。ふわふわのスポンジの上にたっぷりと塗られた生クリームと、どっしりと構えるイチゴ。それを食べるのがパーティの何よりの楽しみだった。

ただ、パーティをしていたのも小学校の低学年くらいまで。自分でも料理を手伝うようになってキッチンの上の戸棚をあけた時、使われなくなったケーキセットを見ると、少しさみしい気持ちになった。

母が僕を生んだのは30代後半だった。父は40代前半で、まわりと比較するとずいぶん遅い時期に生まれた。

母は身長が140 cm代ととても小さく、体も強いほうでは無かったため、よくもまぁ自分の身長が170cmを超えるくらい伸びて、すくすくと成長したものだと思う。

年齢や親の身長のため、小学校の授業参観で、まわりの20代のお母さんに囲まれている母や父を見て、子供ながらに複雑な気持ちにもなった。身勝手にもっと若いお母さんやお父さんが良かったと願ってしまったこともあった。

母は「優しい」という単語が具現化したような存在で、父は「真面目」という単語が具現化したような存在だった。

母は、階段で重い荷物を持っているおばあちゃんがいれば手を差し伸べるし、他の人が楽になるように先回りして仕事をこなしてしまったりもする。

父は、今では定年退職をして残りの人生を悠々自適に暮らしているが、社会人の頃は、平日毎朝5時半には起き、19時には必ず帰宅。家族3人でご飯を食べるルールをよほどの頃がない限り破ることはなかったし、毎週日曜日は父必ずカレーを作る。小学生の頃までは、3人で食卓を囲むのは楽しかったが、中学生になってもれなく思春期を迎えると、あまり積極的に家族と会話をすることがなくなってきた。

女の子の友達がお母さんと服を買いに行ったという話をきいたり、男友達の家に遊びに行ったときに、そいつのお父さんが友達とふざけあったりしているのを見ると、心底羨ましいと思った。自分の家族は、あまりにも親と子という関係性が際立っていて、親であり友人でもあるようにな彼らのようには到底なれなかった。

父はバラエティを見ていても全然笑わないし、母もファッションや音楽などのカルチャーに興味がある方では無かった。だから、自分が好きなコトを話しても、どうせ親はわかってくれないと思い、学校の話もほとんどしなくなっていった。食事が終わると「ごちそうさま」と一言だけいって、部屋こもる日々。別に親のことが嫌いなわけでは全く無かったが、距離をおいて、必要以上の関わりをもとうとしなかった。小学校の頃は毎年家族で旅行に行っていたけど、それもめっきりなくなった。

僕にとって家は、ただ帰ってご飯を食べる場所になっていた。

そんな冷めたというか、ただ親と子が集う場所になったまま、僕は20歳で一人暮らしを始めた。1時間半弱とかで帰ろうと思えば帰れる距離だったからこそ、余計に実家には戻らなくなった。夏休みと正月に帰るくらいで、帰っても見えない壁のようなものはあり続けて、ろくに会話はしなかった。

そんなある日、家で一人、何気なくテレビを見ていたときのこと。たまたま夕方のニュース番組のドキュメンタリーで、盲目の両親と健常者の子供の家族が取り上げられていた。テレビに出ているお母さんは、「本当に盲目なのか?」と疑いたくなるほど料理が上手で、包丁だって器用に使いこなす。

家族でご飯を食べている風景は、目が見えないと知らされていなければ、普通の一家団欒となんら変わりなかった。僕はその場面を見ていて、不意に涙が止まらなくなった。テレビに写るご両親が、娘さんに与えている愛の深さと量に、思わず自分の親を重ねてしまった。

お互い盲目という中で、子供を産んで育てるというのは、相当の決心だったと思う。「もしかしたら自分たちのことで、子供がいじめられたりするんじゃないか」。僕が同じ立場だったら、きっとそんなことを考えてしまう。それでも、自分の中で覚悟を決めて、愛情を注ぎ続けている。僕の母も体が弱いほうで、一人産んだら次は産めないということを以前聞いたことがあった。反抗期になって、それをこじらせたままでも、変わらず僕を包んで受け入れてくれていることや、小さいころ両親と一緒に遊んだ思い出がエンドロールのように蘇ってきた。

本当は気づいてたのだ。不器用な両親から自分から勝手に距離をおいていたのだと。壁を作って、わからないと決めつけていたのは自分のほうだったと。大学の合格発表の日、今まではテストの結果とかを気にしなかった父が、自分よりも先に結果を見て部屋に飛び込んできて僕を起こしに来てくれた。まるで自分ごとのように喜んでいた。母はいまでも毎月必ず連絡をくれて、元気にやってるのか心配してくれる。何かあった時に絶対に味方でいてくれる。二人とも、十分僕に歩み寄ってくれていた。それを見ないふりして、色眼鏡で両親を見ていたことを、ひどく情けなく感じた。

この前、久々に実家に帰った時、たまたま父と二人で出かける機会があった。父は酒を飲まないので、プラプラと歩いていただけなのだけど、その時始めて父が勤めていた会社を選んだ理由を聞いた。研究室の推薦で2つの企業からオファーがあって、別にどっちでもよかったからなんとなくで選んだらしい。そんな話を聞いて、意外と適当なところがあるんだなと、いまさら新しい一面に触れた。なによりも、普通にどうでもいい話でも会話ができるじゃん、と思った。

誕生日を迎えたとき、ちょうど、辻村深月の「朝が来た」という作品を読んでいた。「朝が来た」は養子の息子をめぐり、育ての親と生みの親の関係性を描いた物語だ。僕はまだ子供はおろか結婚すらしていないが、自分が産んだ子でも、そうではなくても、育てるという行為の中で、愛情はとめどなく溢れ出し、無限に注がれるものなのだと胸が熱くなった。同時に、時間を置きすぎたせいだろうか。恥ずかしくて面と向かっては言えないけど、こうして丈夫に育ててくれた親への感謝の気持ちが、ふつふつと湧いてきた。

誕生日を迎えると、なんとなく自分のこれまでの人生を振り返り、次の1年どうしていこうか考える。今回たまたま、誕生日の時期とnote「# 生まれ変わるなら」という企画の時期が被り、せっかくだからこのテーマで書いてみようと思った時、パッと思い浮かんだのが両親の顔だった。

自分がたとえアラサーを迎えても、親にとって僕は一人息子のまま。眼の前で言うことはまだチキンでできないだろうから、こうしてネットに気持ちを残しておく。まぁ、ネットをあまり使わない両親がこの文章を読むことはきっと無いだろうけど。もし読んでくれるのであれば、こう伝えたい。

「生まれ変わるとしても、やっぱお父さんとお母さんの元で育ちたい」と。


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