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PERFECT DAYSの「虚構」が示す「希望」

俳優の役所広司さんが、カンヌ国際映画祭最優秀男優賞を受賞した「PERFECT DAYS」を見てきた。

「PERFECT DAYS」はトイレの清掃員として働く役所広司演じる平山の日々のルーティンを淡々と描いた作品だ。非常に面白い作品である一方、その中である違和感を感じた。それは、描かれている日常でたびたび挟まれる「虚構」だ。
(以下ネタバレを含みます)

計算されすぎた「日常」に感じる「虚構」

例えば、平山の同僚タカシがダウン症を持つ青年と分け隔てなく接しているシーン。

タカシは、そのシーンが訪れるまでなかなかにしょうもない若者として描かれる。

スマホをいじりながらトイレ掃除をし、彼女とのデートで自分のバイクがエンストして使えないとなるや否や平山に職場まで乗ってきた車を貸してほしいと頼む。挙げ句の果てには、タカシが狙っている女の子アヤちゃんのお店に行くために「今日が勝負なんすよ〜」と言って、平山の大切にしているカセットテープを下北のお店で売ろうとする。

他には、アヤちゃんがカセットテープのお礼に平山の頬にキスをするシーン。

アヤちゃんはおそらく20代前半で、髪の毛を金色に染め、若者っぽい服に身を包んでいる。一方、平山は50歳前後で、タカシがいなければおそらく一生交わることがなかっただろう存在だ。アヤちゃんと平山が出会ったのは、劇中で一回きり。テープを貸してくれた(正確にはタカシがこっそりアヤちゃんのポシェットに忍ばせた)だけの間柄だ。にもかかわらず、素敵な曲を聞かせてくれたお礼に頬にキスをする。

また、姪っ子であるニコが突然転がり込んでくるシーン。

中学生くらいの子供が、たとえ家族の一員とはいえアパートの一室に住む叔父のもとにやってきて、彼の仕事についていったり、一緒に銭湯にいくだろうか。

事前情報とのギャップのせいで、タカシがダウン症の青年と仲良くしていることやアヤちゃんが親ほど年齢の離れた男性の頬にキスをすることや平山とニコが分け隔てなく仲良くしているシーンにどうしても違和感を覚えざるを得ない。本当に現実でこんなことが起こっているのか?とそこに虚構性を見出してしまう。

だが、虚構だと感じているのは、自分自身の偏見が入り込んでいるからに他ならない。だらしないタカシがダウン症の青年と仲良くするはずがない、とか、親子ほど離れた人の頬にテープを貸してくれた程度でキスをするわけがない、とか決めつけているから、違和感を感じる。

その違和感を強調させているのが、それ以外のシーンが自分の頭の中で想像できるくらいリアルに描かれているからだろう。また、トイレ掃除をしている男の日常の中のささやか幸せを描いた映画だと前もって刷り込まれているから、より一層、突然の虚構に目が奪われる。

「虚構」によって浮かび上がる、私たちの「境界」

なぜ、こうした虚構性の高いシーンを差し込んでいるのか。それは、虚構のシーンに共通しているのが、映画のテーマでもある「違う世界」同士の交流だからだ

「お母さんとおじさんは違う世界を生きている」

ニコと橋の上を自転車で走りながら、平山はそんな話をする。その言葉通り、ほとんどのシーンで平山は彼とは違うレイヤーの世界の人とは交わらない。

仕事終わりの15〜16時ごろに訪れる浅草駅構内の居酒屋では、その時間帯に居酒屋で飲めるであろう人だけが集まり、後ろの通路は忙しないビジネスパーソンたちが通り過ぎていく。仕事中にトイレの個室で泣いている男の子を助けても、その子のお母さんからは一瞥もないし、感謝も言われない。平山がプライベートの時間で言葉を交わすのも、古本屋の店主とカメラ屋の店主であり、それも一言か二言につきる。唯一羽を伸ばしているであろう隠れ家的なスナックでは、同年代の独身男性が集まっている。

こうしたシーンは、同じ時間や場所を過ごしていながら、私たちは様々な人と驚くくらい別のレイヤーで生きていることを感じさせられる。だからこそ、普段は交わらないであろう世界線が交わった時、そこに無意識的に虚構性を見出し、それが魚の骨のように喉につっかかる

虚構性の高いシーンを描くことで、実は境界なんてものは、私たちが勝手に引いているもので、相手を一人の人としてみればいとも簡単に飛び越えることができるのだ、ということを突きつけている。

「こんなふうに 生きていけたなら」と平山の涙

彼はルーティンのある生活を自分に課し続けることで、違う世界線に飛び込むことを恐れていたのだと思う。

ランチどきの公園で、同じように一人でランチを食べるOLを見かけても会釈ですます。毎日トイレ掃除で訪れる公園で不思議な振る舞いをするホームレスを見ても、遠目に眺めるだけ。だから、自分の境界に入り込んでくるアヤちゃんやニコ、行きつけのスナックのママの元旦那のトモヤマといった存在によって、徐々に自分が本当は人と関わりたいのだと気づいていったのだと思う。

PERFECT DAYSのコピーには「こんなふうに 生きていけたなら」と書いてある。これは一見、平山のように、起き抜けに自分の育てている草木に水をやったり、フィルムカメラで写真を撮ったり、寝る前に好きな小説を読み進めたりするような、自分なりのささやかな幸せを見つけられることへの観客目線での羨望を描いているように読める。

しかし、映画を見終わると、全く違った見方ができる。この言葉は平山からタカシやアヤちゃん、ニコ、トモヤマのように、周りの人と関わっていくことを恐れずに生きていけたら良かったのに、と読むこともできる。

だからこそ、平山はトモヤマと隅田川沿いで酒を飲み交わし、影踏みした翌日の出勤日に涙を流したのだと思う。この涙には二つ意味があると思う。一つは「どうしてもっと早く人と深く関わらなかったのか」という後悔。もう一つは、「自分だって、誰かの人生に関われるのだ」という安堵。笑っているようにも、悔やんでいるようにも見える顔から流れる涙には、そんな意味が込められているのだと思う。(それを長回しで表現できる役所さんの演技力には脱帽)

「分断」を越えられるか

グローバリゼーションが加速した一方で、様々な「分断」が生まれている。各国の首相が集まる「世界経済フォーラム年次総会2023」のテーマは「分断された世界における協力の姿」であった。また、国連のグテーレス事務総長は、先日2024年に向けたメッセージの中で「新しい年は分断を乗り越えて団結しなければならない」と訴えている

戦争をはじめとした国家間の問題というマクロな視点だけでなく、身の回りを見渡すだけでも小さな分断は観察できる。例えば、学歴というのは身の回りにある分断の一つだ。少し前の記事ではあるが、学歴は賃金の格差だけでなく、家族形成にも影響を与えている。しかし、学歴といのは、生まれた家に左右されることも多く、負のスパイラルが生まれる仕組みになっている。

その分断を乗り越えるのは、影踏みのように自ら進んで重なり合うことだ。PERFECT DAYSにおいては、ニコが平山とニコの母親を横断しているように、子供の持つ純粋さ、ある種社会規範に染まりきってないことが、その分断を超える可能性として描かれている。しかし、それはとても難しいことにも思える。

だが、その勇気を持たなければ、訪れるのは孤独だ。そして、それは自分と社会の分断に少しづつ近づいていく。相手の影に踏み込むことは怖い。だが、踏み込んでみると、意外にも人の心は動く。PERFECT DAYSの中の完璧ではいられない人たちが示す、閉塞的で分断された社会の中にあるそんな希望を、信じてみたいと思う。

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