見出し画像

僕らは「ことば」に囚われている

「ことば」はつくづく面白いものだ。

この世は「ことば」で溢れている。

1日中何もない部屋にぶち込まれて、両手を鎖で縛られていたとしても、「ことば」からは逃れられない。どんな時でも「ことば」は頭の中で次から次へと浮かび上がる。飛んでは消えゆくシャボン玉のように、次から次へとふわふわと生まれる。高尚な「ことば」も低俗な「ことば」も、綺麗な「ことば」も醜悪な「ことば」も。

「ことば」はそれだけでは何も為さない。百貨店のラッピングのようなものだ。「ことば」は何かを定義するために存在するのであり、むき出しの「物体X」に「りんご」や「バナナ」と意味を持たせる。「ことば」の役割は意味を作ることだ。意味を作ることしかできないのに、意味を持った「ことば」に意思が加わると、「ことば」は人を動かす。

コピーライターなんて職業があるように、「ことば」の力を使えば、良きようにも悪きようにも人や社会を動かすことができる。

「ことば」の素晴らしさと恐ろしさをテーマにした演劇に「嵐になるまで待って」という演目がある。この演目には「ことば」の力を使って人を殺してしまう波多野という殺人鬼が出てくる。彼は、「おはようございます」の裏に「死んでしまえ」と意味を加えることで、呼びかけた相手を死に追いやる力を持っている。彼は声を失った姉に危害を加えようする人間を、その力を使って自殺に追いやる。しかし、ラストシーンで、姉のためを思って行動してきた彼に対して、姉は手話で「もうやめて」と話しかける。その「ことば」に絶望した波多野は自ら命を断ってしまう。

現実世界では、波多野のような力を持った人間はいないだろうが、意思を持った「ことば」に動かされてきた人は多いだろう。電車内の広告一つとっても、「そろそろ英語ができないとまずいんじゃないか」とか「確かに転職してもいい頃合いかもしれない」とかそんな欲望を駆り立てて、行動を促すもので溢れている。「ことば」にされなければ、気づかなかったような心の奥底の糸を「ことば」はグイと引っ張りあげてくる。

僕らは「ことば」を使って世の中を動かしているように見えるが、実は「ことば」に囚われているとも言える。ある1つの概念を説明するときに使った「ことばA」を説明するためには、「ことばA」が説明した概念を使わないと説明することができない。「野球」を説明するのには「バット」が必要だが、「バット」を説明するために「野球」が必要なように。

普通の職業よりも少しだけ「ことば」に対して敏感な編集やライターの仕事は、「ことば」の積み重ねによって成り立っている。誰かに訴えたい何かがあって、それを「ことば」を使って必死にひねり出すのが僕らの仕事だ。「ことば」を使ってと言っているけど、「ことば」がなければ成り立たない仕事であり、「ことば」について考えれば考えるほど、もっとも「ことば」に囚われやすい。

「ことば」を理解するためには「ことば」を外から客観的に眺めるしかないが、人間である以上それは不可能だ。とすると「ことば」を本当に理解できるのは機械だけなのかもしれない。技術を用いて、「ことば」を外から解剖した暁には何があるのだろうか。だが、それを知ることすら「ことば」を用いなければならないのだ。

たくさんの定義された「ことば」によって文化は作られ、人は進化してきた。進化の先に生み出された機械が「ことば」を理解したとき、機械も「ことば」に囚われるのだろうか。それとも「ことば」を超越するのだろうか。

人間と機械をフラットに結びつけるのが「ことば」だけだとしたら、それもまた面白いなと思うのだ。

この記事が参加している募集

#とは

57,808件

最後まで読んでいただきまして、有難うございます。 あなたが感じた気持ちを他の人にも感じてもらいたい、と思ってもらえたら、シェアやRTしていただけると、とっても嬉しいです。 サポートは、新しく本を読むのに使わせていただきます。