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異世界転生のアンチテーゼとして観る、ロマンス・コメディ「わたしは、最悪。」

第94回アカデミー賞に国際長編映画賞と脚本賞にノミネートされた「わたしは、最悪。」は、20代後半から30代前半でぶち当たる人生の踊り場を描いた、「何者」かになりたいが、なれずもがく女性の話だ。しかし、少し違った見方をしてみたい。それは、もしも自分が主人公のユリアとして転生したら、という見方だ。

ユリアは、医学の道を志し大学に通うも、途中で「なんか合わない」という理由で「心理学」の道へと進むが、またしても「なんか合わない」という理由で「写真家」へと転向する。しかし、写真家になることも途中でやめ、今度は「書店」で働き始める。さらに、自分は書くことが向いているかも、とライターをはじめ、しかも「独創的で良い」と褒められる。

職種を変えるごとに彼女には新しい恋人ができる。しかも、見知らぬ人の誕生日パーティーで出会った男性とも惹かれ合う。

これだけ見ると、容姿端麗で知性に溢れたハイスペックな人であると見ることができる。そんな簡単に医学部なんか入れないと思うし。

ところが、彼女はずっと幸せにならない。自分の天職や運命の人だと思ったとしても、途中で「なんか違う」が現れて、その場から立ち去ってしまう。もし、異世界転生ものであれば、ハイスペックなだけで幸せになれるはずなのに。

ハイスペックである、ということは限られた範囲での他者評価にすぎない。映画の舞台はノルウェーのオスロだが、もしも彼女が全く価値観の違う場所に、同じスペックで行ったとしても。おそらく同じように評価はされないだろう。彼女は確かに頭がいいし、モテる。しかし、目の前の清濁を併せ呑むことができない。受け入れることができない。どこかに完璧があるのではないかという思いがよぎる。完璧があるのは空想の中だけだ。

映画の途中でユリアが浮気相手と輝くような時間を過ごすシーンがある。オスロの素晴らしい描写も相まって、まるでミュージカルのワンシーンのようである。ただ、そのシーンでは、周りの時間が止まっている。二人だけの時間に没入している、という描写だと思うが、もちろんこの世で時間が止まることはあり得ない。つまり、この描写は映画の中では真実であるが、現実では空想なのだ。それは、異世界転生があり得ないのと同じなように。

映画のラスト、紆余曲折を経て、彼女は「写真家」の仕事へと戻る。どれくらいの地位であるのかは描写されていない。しかし、現場仕事を終え、家に戻り、Macの前で写真を加工する彼女の姿は、どこか今の現状を受け入れ、満足しているように思える。異世界に転生することはあり得ない。しかし、自分の切り取り方次第で、今の環境を異世界にする、つまり自分を主人公に見立てることはできるのだ。

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