物語の価値について

小説は「消費」、ビジネス書は「投資」

昔読んだビジネス書にそんな一節が書かれていた。

その本の内容自体は素晴らしかったが、この一文だけには数年たった今でも賛成できない。

僕は小説が好きだ。物語が好きだ。フィクションでもノンフィクションでも。ミステリー、コメディ、ヒューマンドラマ、ファンタジー。ジャンルレスに好きだ。

仕事の関係で流石に年間3桁も小説は読めないけど、電車の中や寝る前に数ページだけでもめくるようにしている。物語の世界に入り込んでいるとき、日常の喧噪や忙しさからふっと離れ、自分の時間を取り戻したような気分になる。

時には平安時代にタイムスリップして過去の動乱の最中に興奮したり、また別の日には未来のユートピア的世界を通じて考えを深めたり、その次は大学生たちのくだらなくもどこか愛おしい日常を過去の自分を振り返るように眺めてみたり。

ベッドの上や椅子の上でじっとただ紙のページをめくるだけの様子は、読書を知らない宇宙人からしたら、少し奇妙かもしれない。仕草には現れてなくても、心があっちへ行ったり、こっちへ行ったりしている。

がだ一方で、物語が好きであればあるほどその価値について考えるようになる。「消費」とまでは思わないが、小説を含め、物語の価値とはどこにあるのだろう。

その疑問を解決するヒントになりそうな本に「博士の愛した数式」の著者小川洋子さんが書いた「物語の役割」という作品がある。小川さんは、著書の中でこんな言葉を残している。

たとえば、非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っているわけです。
物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけているのです。

僕たちは毎日、いろんな事実にぶつかりながら生きている。目の前にあるものや起こることは全部事実でしかない。人はそこに物語を付与することで、毎日を生きている。小川さんは小さい頃、ボタンを止めるのが下手くそで不器用だった自分を肯定するために、ボタンそのものが冒険に出てしまっているからだ、という物語をつけて自分を納得させた、と綴っている。

もちろんボタンはボタンという物質で命が宿っているわけなんか無いのだけど、小川さんの中ではボタンは生きていて、そう捉えることで自分を救っている。つまり、物語の役割とは自己肯定なのだ。小川さんの話は自分で作り出した物語によって自己肯定を得た。もちろん、他人が書いた物語にも自己肯定の作用はある。

僕の好きな小説の一つに恩田陸の書いた「蜜蜂と遠雷」という本がある。この本はピアノコンクールが舞台で、4人の主要な人物が登場する。その中の1人に明石さんというサラリーマンがいる。彼は4人の中で唯一の凡人として描かれている。他3人は輝かしい才能や経歴に満ち溢れていて、ただただ羨ましいと思うのだが、明石さんは妻子持ちのピアニストへの夢が諦めきれなかったサラリーマンで、今回のコンクールに自分のピアニスト人生を託す。

自分とは全く違う人ばかりに囲まれた中で明石さんが頑張る様子に、僕は胸を打たれた。周りとの圧倒的な差を感じながらも、諦めないその姿勢を見て、自分ももっと明石さんのように頑張ろうという気持ちになった。もちろん「蜜蜂と遠雷」はフィクションだ。だが、他人の人生に自分を重ねることが、自己肯定に繋がる。小説を読んだからって次の日から仕事が2倍でできるようになるなんてことはないけれど、次の日を生きる勇気をくれるかもしれない。

物語は「消費」なんかではなく、ちゃんと読んだ人や作った人の人生の栄養になっている。もし物語がなかったら、世の中はもっと冷たく、合理的になっていただろう。

僕らは物語があるから自己を肯定でき、今の自分がいるために築き上げられた過去を学び、過去に生きた人々に思いを馳せ、未来を進もうと思えるのだ。

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