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「安政大地震災禍図巻」~アイルランドに眠る唯一の地震絵巻


はじめに

縦書き・横スクロールで無限の空間が用意できるウェブサイトならば、本来の絵巻物の見方が可能ではないか。そう考え、「横スクロールで楽しむ絵巻物」というウェブサイトを制作しました。このノートでは、本来の見方で絵巻物を眺め、発見した魅力を書いていきます。

アイルランドに眠る「災厄絵巻」

アイルランド、ダブリンにあるチェスター・ビーティ・ライブラリー(以下CBL)という図書館に、「安政大地震災禍図巻」という絵巻物があります。江戸時代の末期、1855年の10月2日に起きた安政江戸地震を題材にした絵巻物で、地震発生前から復興までの道のりを、絵巻物という手法の特徴を活かしながら、緻密に描いています。

江戸時代は冊子形式の草双紙や浮世絵が大量に市中に出回り、出版物の大衆化が進んだ時代でしたから、現在でいう映画やアニメーションのように制作に人と金がかかる絵巻物の地位は、相対的に低くなりました。しかし、江戸時代に入っても、絵巻物はさかんに制作されていました。その中でも、「行列絵巻」と並んで、江戸時代ならではの題材と感じるのが、「江戸の華」と呼ばれた火事、そして地震を描いた「災厄絵巻」です。

絵巻物に描かれた「江戸の華」

江戸時代は、1657(明暦3)年の「明暦の大火」にはじまり、1829(文政12)年の「己丑の大火」まで、数多くの大火に見舞われた時代でした。焼け野原からの復興のたびに江戸の都市は改造され、また火消や「江戸っ子気質」が醸成されるなど、庶民文化は火事を母体として育まれていきました。

江戸の火事は「江戸の華」とも呼ばれ、江戸っ子にとって注目の的であり、絵巻物にも数多く描かれました。その多くは、詞書を持たず、火事の発生から消火、復興までを時系列でスクロールしていく連続式絵巻の形式をとっており、平安末期の「信貴山縁起絵巻」や「伴大納言絵詞」を彷彿とさせる、芸術性の高い内容です。

火事絵巻一覧(「地震絵巻に見る時空間表現と視覚効果」を基に作成)

平安末期の絵巻黄金時代を再興したとも思えるこの連続式絵巻の手法は、「明暦の大火」を描いた絵巻にはじまり、同様のパターンが、大火のたびに繰り返し描かれるようになります。そして、安政江戸地震を描いた「安政大地震災禍図巻」及び「江戸大地震之図」では、火事絵巻とほぼ同じ表現で地震の発生から復興までが描かれることになるのです(「地震絵巻に見る時空間表現と視覚効果」)。

現代によみがえる安政の大地震

ペリー来航から時を経ずして起きた安政江戸地震は、その前年から打ち続く安政東海地震、安政南海地震に連動して起きた直下型地震で、死傷者は4000-1万人に及びました。倒幕運動と呼応するように始まった大地の動乱は、幕府倒壊の一因になったともいわれ、日本史上きわめて重要な出来事です。

絵巻物の制作がはじまった平安時代以降、日本列島は数多くの大地震を経験してきたはずですが、地震を描いた絵巻は、知りうる限り「安政大地震災禍図巻」、そして同様の図様を持った「江戸大地震之図」(東京大学史料編纂所蔵)だけです。火事を扱った絵巻が数多く残されていることとは対照的です。火事は日常的な災害であったのに対し、地震、それも平安京や江戸を襲う大地震は少なかったことの表れでしょうか。

「安政大地震災禍図巻」は地震発生前から復興までのフェーズが、緻密に計算された構図で描かれていて、圧巻の出来栄えです。とくに、地震発生による家屋の倒壊から、遠方での火事発生、焼け野原になった街並みまでの描写は、時系列の変化が細かく練られていて、実際に大地震を経験した絵師により制作された作品だということが感じられます。

地震発生から復興までのフェーズの移り変わり(「安政大地震災厄絵巻」)
遠景の火事から家屋倒壊(「安政大地震災厄絵巻」)

また、画像を部分拡大してみると、被災者の様子が丹念な筆致で描かれていることが分かります。家屋の倒壊後、火の粉が降り注ぐ中、必死に救出作業にあたる人々、瓦に頭を打ち血を流す人々、焼死者を前に泣き崩れる人々など、切迫感のある地震直後の様子が見えてきます。

火の粉が降り注ぐ中、必死に救出作業にあたる人々(「江戸大地震之図」)
火の粉が降り注ぐ中、必死に救出作業にあたる人々(「江戸大地震之図」)
赤ん坊を抱いたまま押しつぶされる女性(「江戸大地震之図」)
蔵の下敷きになった男性(「江戸大地震之図」)
黒こげになった遺体を前に泣き崩れる人々(「江戸大地震之図」)

おわりに

古来、地震が起こるたび、この絵巻物に描かれているような発災から復興までのフェーズが繰り返されてきました。安政の頃と比べれば科学技術やインフラが飛躍的に発展した現代でも、それは変わりません。同時代の災害を克明に描いたこの絵巻物は、ただの歴史資料というばかりではなく、そのリアルな描写も相まって、いま再び災厄が相次ぐ日本で、胸に迫ってくるものがあります。

青空に浮かぶ富士山の描写で、絵巻は閉じられています。復興への希望や願いの感情も、今も昔も変わらないもことだと、安政大地震災禍図巻は教えてくれます。

復興への歩み


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