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逃げる者たちへ

今回は「逃げ」について、えんじろうが感じていることを語ってみようと思っています。一言「逃げ」などと言われてしまうと、ネガティブなイメージが先行するのではないでしょうか?
非常口になった気分で御覧ください(笑)


定義

やっぱりこういうのって、言葉の定義をしっかり確認しておかないと感情の話に流れてしまう気がするので。
まずは「逃げ」というか「逃避」について調べてみました。はじめに一般的なというか直接的な「逃避」の定義、続いて心理学における「逃避」の定義をまとめてみます。

一般的定義

定義 困難や現実から逃げること
対象 日常生活・仕事・人間関係など
効果 心の負担軽減になるが解決ではない

「逃」はのがれる、「避」は「かわす」
人間の本能的な行動として、危険やストレスから逃げ自己を守る行動

コトバスタ より

参考ページの内容をえんじろうなりにまとめてみると、こんな感じになりました。意外に感じたのは、クマが襲ってきたから逃避したというような使い方ではなく、クマから逃げたいという気持ちに対して使う言葉というところかな。あくまで行動ではなく心や思考を示す言葉という印象。

ところで説明に「一時しのぎであって根本解決ではない」ということをやたら強調されているように感じました。正直「んなこと判っとるわい!」と反抗したくなるのは、えんじろうが逃避を多用して生きてきたから。

画像 走る人影

心理学的定義

心理学の世界では「逃避」は「防衛機制きせい(適応機制)」の中の1つで、心を安定させるために用いる様々な手段のことを指すそうです。その中で「逃避」は、自分を不快な現実から遠ざけようとする心の働きということで、ほぼ一般的な定義と同じでした。
そして目的が「自分の心を守る」ためにあるというところが、忘れてはいけないことかなって思います。

調べていくと心理学ではさらに分類があるようです。

1.退避 自己評価の低下が予想できる場面を回避
2.現実逃避 困難を避け別の行動に没頭
3.空想逃避 空想の世界で自己実現を夢見て代償的満足を得る
4.病気逃避 病気を理由にする(仮病でなく身体症状あり)

心理学の分類

逃避の中でも「退避」は、予防に近いような雰囲気を感じました。逃避の定義で行けば「避」の交わすの意味合いが強いですね。困難が目の前に来る前の対処のような。
それに対して残りの3つは困難が避けられなくなった際にどうするかの違いですね。想像しただけでなんだか怖くなってきます。

我が人生は逃避の連続

さて、笑わないでほしいのですが、逃避というのは単なる対処法であり、それ自体には良いも悪いもないとえんじろうは考えています。

ところでこれ、どこからが逃避の領分に入ると思いますか?
天気予報で「明日は雨が降るでしょう」と言っています。雨は嫌だから傘を持っていこう。
これだって立派な「困難や現実から逃げること」です。外出をやめにするのも同じですね。実は対処と逃避を明確に分けるなんてことはできないのではないだろうかと思うんです。

何となくそれを隔てているのは、社会の常識ってやつで大多数の人が取る行動かどうか。つまりは社会的に理想的な行動かどうかなのではないでしょうか?社会的に都合の良いものは「対処」と言われ、あまりそれをやられては困る場合に「逃避」と分けているように感じるのです。
そうしなければ、すべての人生の選択の場面で「逃避」に基づいて決めましたってことになる気がします。ほら、妥協案とか消去法とか、あれだって見方を変えればよりまずいものを避ける行為じゃないですか?これはもう「退避」ですよ。

画像 複数に分かれた道

えんじろうの人生はずっとずっと、この「退避」の末に今があるって言えるくらいです。より良い選択をするという行為と、危険な選択をしないという行為は実は同じだって思いませんか?

はい、というわけで言いたいことは
「逃避して何が悪い!」
ということです(笑)

あっ演説するような気分になって調子に乗って書いていたせいで、この話からどういう話題に持ってゆこうと思っていたのか忘れちゃったよ。

解決すべき困難

多々ある困難の中で、人生において逃避してはいけないものはどのくらいあるのでしょうか?逃避することでものすごい人に多大な迷惑がかかるとか、とんでもない不幸を招いたとか。

逃避は悪の刷り込み?

えんじろうは小学生時代から、ずっと「逃避=悪」と言われ続けてきたと感じています。これは例え他人に迷惑がかからない場面の逃避についても「断じて許されない行為」というくらいの勢いで怒られまくっていました。

先生の立場から考えると、逃避を許すことで「成長の場面をなくす」という感覚があったのでしょうかね?
当然当時の僕はそんなこと理解しないので、なんて意地の悪い人だろうかと思っていました。いちいちあれこれあった逃げ道を塞いできて、そっちの生きたい方向だけ塞がずに残しているのです。これはどう考えても、自分の先の行動を強制しているとしか思えませんでした。
そうしておいて用意された答えに進もうとすると、今度は「ちゃんと考えたのか」というのですよ。自分で選んだと思わせたいのでしょうけれど、そっちで逃げ道1つにしておいて何を考えればよいのでしょうかと今なら思います。

でも僕はそんな言葉がすぐに思いつく頭じゃなかったので、30分でも1時間でも何も言わず黙って立ち尽くしていることがしょっちゅうでした。
1つに縛られた答えに、コントロールされた答えに安易に飛びつかないことくらいが、自分にできる本当にちっぽけな抵抗だったのです。

画像 しかりつける先生

教育の結果は?

その結果、相手の顔色を見て「相手が正しい」と認める行動を先読みし、グズグズ言われる前に「自分から行う」という術が身につきました。
これも相手に行動を限定される苦痛を避けるため、先回りして「自分で選び取った」感を味わうというある意味「空想逃避」ですよね。

大人に行われてきた「逃避をさせない作戦」に、逃避でもって対抗していた我が人生。180度ひっくり返って面白くないですか?
何であれ、えんじろうが生きていくうえで役には立っているわけですね。ということは、案内やな思いをした教育にも、意味があったのでしょうか?受けていなければいないで、なんとかなったのかも知れないし。考えるだけ無駄ってやつですね。

なんだったん?

いやいやそんな終わり方で良いのか?結局全部考えるだけ無駄だったって落ちじゃ、ここまで読んでくださった方に人すぎじゃないですか。
でもね、ここまで考えた結果ようやく「考えても無駄」というところにたどり着けるわけですよ。考える前にはこの答えって思えないんですよ。だから無駄じゃないんです。

わーどっちだよ!その答えは、ライブの際に語る言葉の中に、これからもちょっとずつ含まれ続けることと思います。
ぜひ予約してね。



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#悩め #逃避 #心理学 #幼少期 #人生

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