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昭和と令和の違い

年号が令和になったとき、なんだか「昭和みたいな響き」だなあと感じた方はおられませんでしたか?今回はそんな昭和と令和との違いについて、あれこれ感じたことを書いてみます。


昭和の感覚

まずは昭和生まれ(と言ってもほぼ末期ですが)のえんじろうが、当時よく感じていた感覚をまとめてみます。

セピア色のフィルムの景色

何より大切な平均値

昭和の時代はとにかく「平均」を大切にされていたように感じました。何事もまずは平均値にまで持ってゆくことが大切と言われたような気がします。

そしてその平均値に達していない場合は「落ちこぼれ」とか言われ、例え平均値よりも飛び出たものがあったとしても、それ以上に平均値未満のものが1つでもあることが問題。ときに中途半端に平均値を超えたものがある場合などは「出る杭は打たれる」の名の下に粛清のような圧力を感じることになったり。
上を目指せと言っておきながら、それ以上に平均以下のものを無くすことの方が大切だという暗黙の了解が存在していたように感じていました。

更にはその設定されている「平均値」なるものが、徐々に上乗せされ続けているように思えましたし、誰しもがそれを良いことだと信じていた雰囲気もありました。
えんじろうはこの上がり続ける「平均値という名の最低ライン」の設定がすごく嫌いだったことだけ覚えています。これはある時には「偏差値」という言葉で現れたり、「世間体」という言葉で現れたり。
とにかくすべての能力をこの暗黙の「最低ライン」にまでは上げておかないと「ダメ人間」扱いが待っているというイメージに支配されていました。

社会とは戦いだ

平均値の概念の元、最初はその値との戦い、気がつけば平均値に達した社会の人々との戦い。競争社会という言葉もありますが、なんだか学生のとあるポジションからずっと、競争の舞台を歩まされてきたように感じられます。

それがまた巧妙なことに、社会の荒波に漕ぎ出し生き抜くというさぞ立派そうな中身のない目標を与えられ、恐ろしいことにその目標を自分で立てたものだと思いこんでいる。
少なくともえんじろうにはそんな時代に写っていました。

サボるな

そしてサボることや楽をすることは何よりも悪いことであり、その「悪い」の領域が知らぬ間に拡大し、休憩とか立ち止まって考え直すことさえも「悪いこと」としてくるような圧迫感がありました。
絶えず休むな怠けるな!効率良い方法を考える暇があるなら、目の前のやるべきことを効率悪くてもいいからすぐやりなさい!その姿勢こそが「美しい」のだから。そんな風に言われたときに「あーそういうものなのか」と納得しかけてしまうことの恐ろしさを感じます。

どう考えても効率良い方法を考えることは大切だと思うのですが。とにかく否定を感じることが多かったなあというのが、昭和における印象でした。

令和の感覚

今度は1つ年号をまたいだ令和を見てゆきましょう。
まだそれほど長くはない令和ですが、平成で培われた自由な発想に拍車がかかってきているのかなと感じるような印象です。でもある意味ほったらかし感が強いようにも思います。もちろん自分の身の回りだけ感じての発想なのかも知れませんけど。

都会の景色

特化型にも意味がある

平均値が全てだった頃と比べ、何か1つでも特化したものがあるのなら、それ以外に平均以下のものがあったとしても認められやすい環境になった気がするのです。
むしろその特価の度合が意味を持つ感じで、全てにおいて平均な状態はAIのお仕事の範囲になってきていると思います。

コンピュータの基盤のイメージ

むしろAIのやれることと人間のやれることの平均すら、既にレベルが入れ違ってきているのを感じます。そうなると平均値でAIと張り合うことは無意味です。だってその平均値からAIは学んでいるのですからね。

圧倒的深さで勝負

この時代にはなにかに特化することで適応できるのかも知れません。何か1つ秀でたことを追求し、とことん深くなること。それが人間が行うことの意味なのでしょうか?

実はえんじろうはそれさえも危うい気がしています。そういう事やっている人はとっくに始めていて、後から始めた者が同じ深さに達するには同等の時間が必要なはずです。更にそうやって会得したことすら、これからはAIが吸い上げてゆきます。そうそれも、平均値の材料になるのです。

人間性こそが残された道?

もはや人間に存在する意味はあるのだろうかとか考えてしまいそうになるわけですが、人間らしくいることが、人間の目に温かく映り引き寄せ合い、存在の意味を感じ会える手段なのではないかと思いました。生きるってのは何をすることなのか、そこが変わってきているような気さえします。
人間が人間じゃないものと張り合ってもしょうがないでしょという感じです。だいたいそれを作ったのも人間なのですけどね。

両手を広げる人間のイラスト

では人間らしくいるとはなんだろう?それは何か1つを深く追求する姿であったり、誰かの行動に深く感動している姿だったり、普通の人が思いもしなかったことに着目する独特の視点だったり、嬉しいときに素直に嬉しいと表現できる態度だったり。
きれいなものを見て「きれいだなあ」と思ったり口にしたりすることこそが、人間らしさなのではないかなと思うんです。

そういう感性というか思ったことを素直に表現して生きるのが、AIにとってはできない(彼らには意味がない行為)人間としての意味になるのかなあ。

まとめ

・・・とかそんなことをふと思った秋の日の一コマなのでした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。結末も結論もない話題に付き合うことに少しでも何か感じる意味があったとしたら、僕が書きたかったことが伝わったのかなって思います。少なくとも僕はこの文章を考えたり書いた時間を、無駄とは思っていません。



#enjiro #えんじろう
#昭和 #令和 #時代 #考え方 #人間らしさ

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