わたしのゼロ地点
憧れを抱くことは、成長のきっかけになるから素敵なことだと思います。そのために憧れる対象と自分を比較検討することも、必要なことだと思います。
誰もが当たり前のようにやっている「つもり」になっている、そのやり方が悲劇を生む。今朝なにかの夢を見た際に、そんな教訓を得ました。
他人の視野は知らない
えんじろうは視覚障害の中でも「視野狭窄」の極端になった状態です。5%と言われても、それを100%見えている人に伝えるすべはないのです。だから比較して判ってもらうこと自体がナンセンス。想像してもらうのがせいぜいです。
更に弱視でもあるので、それもかけ合わせた状態を想像してみて下さいなんて言われても「なんか大変そう」と言うしかないと思うんです。
これは逆も同じことで、えんじろうにとってこれが一般だから、自分以上にしかも20倍外側が見えるってどういう事?視力も5倍とか10倍とか数値では判っても、一般の見え方って想像も及ばない化け物じゃないですかってことになっちゃうんですよね(笑)
生まれつき全盲の人からしたらそもそも見えるというのはどういう感覚という話ですし、一般の人が犬の嗅覚を想像できないのと何も変わらないんですね。
なのに判断するわたしたち
それなのにわたしたちは、憧れる相手と自分を並べては判断を下すんです。そもそも相手が見ているものなど自分には体験することができないのに、想像を想像のままで判断を下しちゃうんです。
えんじろうはこれが「悲劇の素」だと思います。しかも自分で下した判断の説得力は、本人に対してだけはとても強力です。まるで呪縛です。
あの人に比べてわたしなんてなにもできていない。なんて言い方になってゆくのですよね。
そこに出てくる「できる」とはどこのことですか?実はどうなったら「できた」と言えるのかすらはっきりしないまま、ただ漠然と使っている言葉だったりしませんか?
ゼロ地点
目線が揃っていなければ、比較はできないのですよね。だからわたしの目線の現在位置(ゼロ地点)をはっきりと見つける。それがなければ「比較」なんて無駄な時間を使ってわざわざ落ち込む場所を探す行為でしかないと思います。
オカリナなら
例えばオカリナを吹く場合、ちゃんと吹くなんてまったく意味のない目標にもなっていない言葉です。だって「ちゃんと吹けた」地点が見えてません。どうしたら「あなたにとってのちゃんと吹けた」という状態なのかを説明できなければ、判断しようがないじゃないですか?それを「先生にとってちゃんと吹けた」などと言ってしまうと、真剣な先生ならばそれはもう永遠にちゃんと吹けたことにはなれません。
判断基準は他人に委ねてはダメなのです。先生には自分が「こうできたらちゃんとできた」という具体的な目標をしっかり伝え、それができたかどうかチェックしてもらうというのが、先生の便利な使い方なわけです。
これをずっと委ねると、永遠に自分で判断できない(卒業の可能性ゼロ)になってしまうのです。
現在位置と目的地
独学ができるというのは、自分の現在位置とその時点でやりたいことの目的地がちゃんと見られるかどうかだと思うんです。それさえはっきり見て判断できるのであれば、回り道もありますけど独学で成長してゆくこともできると思います。
特に目標に対する判断が自分でできるのなら、レッスンなんて受ける必要はないんです(あっ僕は講師だった)
ですからすぐに目的地を見失いそうになる方や、そう言われると見失っていたかもと思う方。目的地は決めたけれど達成できたかが判断できてないという方も、えんじろうオカリナ教室でご指導致します。そもそも目的地の決め方がわからないという方も大丈夫です。レッスンで目的地の探し方も一緒に考えましょう。
レッスンご案内
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って書きながら、そういう話につなげていくのかと笑ってしまった自分がいます。それってこれが目的地になるように書き始めた記事ではなかったんだけれどってことですね。
あんたが「目的なしにこの記事書いていたんじゃないのかい!」って突っ込みは、お許しください。
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