令和6年能登半島地震における帰省中の対応と反省

はじめに

令和6年1月1日、僕は東京から富山県の実家に帰省しており、そこで大きな地震(後に『令和6年能登半島地震』と名付けられる)に遭って一時は避難所に身を寄せるに至った。
ここでは被災時、避難時に起きた事象を備忘録的に残し、加えてそれに対する対応および反省を記すことにより、今後災害が起きた際、僕・そして読者の皆様にひとつでも得になることがあればという思いで記すものである。
また、今回の地震で身の回りに起きた被害は極めて軽微であったので、基本的には避難中、およびそこに至るまでの反省が中心になる。また、せっかちな人のために反省点だけをまとめたものを次節に記す。
基本的には時系列的に記し、たまに当時の僕のツイートも添える。


反省点まとめ

・家族の呼びかけには答えろ
・家具の配置は考えろ
・電話をかけるのは落ち着いてからにしろ
・津波警報が出たらさっさと避難しろ
・避難するときは全員まとめて避難しろ
・どうしても分かれて避難するときは連絡手段を確保しろ
・足腰が弱い人間がいるときは車いすを持っていけ(車いすなしで歩ける人でも)

2024/1/1 16:06 震度3

事象

令和6年元日、僕は3日前の12/29に帰省し、元日の午前中に母の実家に行って祖父と会食したのち、14時ごろには実家に戻っていた。
祖父との会食で大量のお節料理を食べ、日本酒半合程度を飲んでいたこともあり、最初の地震があった16時頃には2階にある自室のベッドで休んでいた。飲酒量が少なかったために、泥酔していたわけではなかったのは幸いだった。
16時過ぎ、2階で揺れを感じる程度の地震が起きて、1階で母が「2階は揺れるから1階に降りてきたほうがいいんじゃないのか」と叫ぶ声が聞こえた。

対応

当時の揺れは体感で震度1~2程度(後に震度3であったと判明)で大したことはなく、また揺れの最中に階段を下りるのは危険であるとの判断から、2階の自室にとどまり揺れが収まるのを待った。
収まり次第1階に降りて、テレビを見ると石川で震度5強の地震が起きており、僕の住んでいるところでは震度3が記録されたというニュースが放送されていた。
僕は母に「この程度の地震で1階に下りてこいなどと叫ぶんじゃない」と伝え、2階にある自室に戻った。以下はその際の僕のツイートだ。

反省

揺れが収まるまで階段を下りず、自室にとどまったのは正しい判断であったと思う。ただ、母の呼びかけを放っておくのはよくなかったと思う。
呼びかけを放っておくと母が揺れの中階段を駆け上がってくる恐れがあり、僕ではなく家族の身に危険が及ぶ可能性があった。呼びかけにはできる限り応えるのが望ましいと思う。

2024/1/1 16:10 震度5弱

事象

自室に戻っていた僕はやはりベッドで休んでいたが、今度は先ほどとは比べ物にならないほどの揺れを感じた。
大きな横揺れが数分程度続き、本棚の本が少しずつ前に出ていくのが見えた。最初は小さめのように感じられたので、よほど本棚を手で押さえようかと考えたがさすがにこらえた。
揺れは少しずつ大きくなり、クローゼットの中で何かが倒れるような音がした。デスクの上にあるペン立てが倒れ、中身が散らばった。

対応

僕はベッドに向かって落ちてくるもの・倒れてくるものがないことを目視で確認しながら、揺れが収まるまでじっとしていた。一番怖かったエアコンは落ちてきてもベッドまで来るような位置ではなかった。
揺れが収まった後、僕は階下に「下に行く」と声をかけた後、1階に下りてテレビを確認した。石川の能登で震度7の地震が発生し、僕の住んでいた地域では震度5弱であったことが伝えられていた。
先ほどの速報では「津波の心配はない」と言っていたが、今度の地震が起きてしばらくすると津波警報が出たことが伝えられた。

反省

本棚を抑えず、ベッドの上でじっとしていたのは正しい判断だったと思う。
今回倒れることはなかったが、本棚が倒れていた場合、手や体を挟まれて怪我をしていた可能性がある。もっと言えば地震が起こる前に本棚を固定しておくのが望ましかったが…
また、ベッドを置く位置についても普段から気を配る必要があると改めて感じた。

2024/1/1 16:22 大津波警報発令(能登)

事象

一家全員、すなわち父・母・祖母・僕の4人が1階のリビングに集まり、テレビのニュースを見ていた。画面では「つなみ!にげて!」との文字が踊り、視聴者に避難を呼びかけていた。母がどこからかラジオを持ってきて流していたが、テレビと全く同じ内容が流れていた。NHKラジオだとそうなるらしい。防災無線は玄関近くに置いていたが、何も聞き取れなかった。後で確認すると、1階で電波状況がいい場所が見つからなかったらしい。
揺れが一度落ち着いたと見た母は祖父宅に電話をかけていた。一応なんともないということを確認していたが、電話の最中にもう一度大きめの余震が起こったので電話を切った。
そのとき、テレビ画面の日本地図で能登半島周辺を囲んでいた赤色の帯が紫色に変わり、アナウンサーは大津波警報が発令されたという旨のことを緊迫した声色で伝えた。能登地方を囲むように紫色の帯があったので、僕は富山県にも大津波警報が出たものと一瞬勘違いしたが、大津波警報が出たのは石川県だけだった。

対応

津波警報発令当初、我が家で避難する予定はなかった。
実家のある場所は標高10m程度であり、予想される津波は3mと報じられていたこと、元公務員の父がハザードマップで実家のある地域は津波発生時の危険地帯ではないと把握していたこと、90歳になる祖母は足腰と耳が弱っており、避難が大変であることなどが理由である。
が、能登地方に大津波警報が出たことにより潮目が変わった。
父は僕に「今のところ避難する予定はないが、いつでも出られるように準備しておけ」と言ったので、僕は2階の自室に戻り、携帯を財布をポケットに入れ、東京の家の鍵が入っているウェストポーチを身に着けて、コートを着て靴下を履いた。また、携帯の充電器をウェストポーチに入れた。普段から「財布と携帯と鍵があれば他はいらない」と言って鞄を持たずに外出しているので、ほかに持っていくものは思いつかなかった。
ここで2階の被害を確認した。1階よりも揺れが大きいためかいろいろ物が落ちており、父の書斎の本棚から本が落ちていたり、母の本棚の上の雑貨がすべて落ちていたり、タンスがずれていたり、トイレの棚の本がすべて落ちていたりした。
1階に戻って家の横の橋を見ると、川をのぞき込んでいる人がいた。また、普段は車通りの少ない道路にも関わらず、何台もの車が山の方に向けて走り出していた。

反省

母が祖父宅に電話をかけたのはおそらくあまり良くない。揺れが収まってすぐに電話をかけようとしていたのは止めたが、揺れが収まってしばらくしてからかけるのは止められなかった。
止めた理由としては、電話をかけている最中に余震が起こった場合に電話に気を取られて危険であること、通信インフラへの負担、電話をかけたところでどうにもならないなどが挙げられるが、揺れが収まってしばらくしてからかけても結局電話中に余震が起きてしまった。どれくらい経ってからかけるのが良いかはわからない。
防災無線については設備の点検が足りていないと言わざるをえない。今回は結局総合的に判断した結果山の方にある中学校に向かうことができたが、防災無線が聞こえていればそれに従うだけでよかった可能性がある。
父がハザードマップを把握していたのは良かったが、避難の判断については難しかった。これについては次節で述べる。

2024/1/1 16:37 避難所へ

事象

家のすぐ横には川があった。テレビでは、津波が川を逆流することもあることを報じ、すぐに避難するよう繰り返し伝えていた。
余震は断続的に発生していた。外では、多くの車が山に向かっていた。
父は「あの車たちはどこに向かっているんだ」というので、僕は「中学校だろう」と答えた。中学校は山に近い場所にあり、大きな体育館や武道場が付設されていた。
多くの車が山に向かっているのを見た僕は不安になり「うちも避難した方がいいんじゃないか」と父に言った。すると、「うちの指定避難所は近くの小学校で、うちよりさらに標高が低いところだ。避難しても意味がない」と返ってきた。僕は「指定避難所などと言っている場合ではない。今は山に近い中学校に避難すべきだ」と答えた。
父から改めて「避難すべきと思うか」と尋ねられたので、僕は「そう思う」と答えた。そして、避難を行うことが決定した。

対応

避難を行うことが決定し、僕は母と祖母にその事実を伝えに行った。僕はすでにいつでも出られるように身支度を終えていたので、特にすることはなかったが、母が「毛布を取ってこい」というので自室から持ってきた。ここで父は家に温水を巡らせる機器のスイッチを切り、僕はこたつのプラグを抜いた。
父は「避難するなら長靴か」とつぶやきながら長靴を履き、車の運転席に乗った。このとき懐中電灯などを持ち込んでいたらしい。僕は帰省の際に動きやすい靴で来ていたのでそれを履いて外に出て、父の車、後部座席の左側に乗った。
しばらくすると祖母が杖をつきながら後部座席の右側に来た。何か袋を持っているので聞くと「通帳が入っている」という。
母が来ないので父が呼びに行った。しばらくして父が戻ってきたので母がどうしているか尋ねると「母は別の車で後から来る」ということだった。それは大丈夫なんだろうかとやや不安になりながらも、母を除く3人を乗せた車は中学校に向かった。

反省

避難の判断については難しかったが、僕は「もっと強硬な主張をして早く避難すべきであった」と考えている。そう考える理由は主に3つ。
①津波は予測される高さを大きく上回ることがあること
②日本海側の津波は到達までの時間が短いこと
③仮に大丈夫でも避難しておくに越したことはないこと
以上だ。
①について、僕は東日本大震災当時は富山県にいたので、被害については全くなかった。しかし、その後東北大学に進学したため、大学の実習で女川に行ったり、大学の友達から当時の様子について聞くなどしており、津波への知識レベルおよび恐怖レベルは一般的な富山県民よりも高いと思う。
東日本大震災でも、予測される高さを大きく上回る津波が発生し、多くの被害が出た。この点を力説し、より早く避難すべきであった。
また、家の横に川があることも僕の恐怖を煽った。発生直後より、「川に津波が逆流する恐れがあるから近づかない方がいい」と盛んにテレビで言っていた。川面から実家までは高さにして4m程度の差があるが、それでも怖いものは怖い。
②について、これは盛んにテレビで言っていたが、日本海側の津波は到達までの時間が短いとされる。実際、今回避難所に向かうことが決定したのは16:37だが、富山県に最初に津波が到達したのは16:35だ。2分で海岸から数kmある実家まで津波が到達するかはわからない。が、避難は早いに越したことはないと思う。
ただ、「避難開始時、すでに海岸に津波が到達しているから今回の避難に意味はなかったか」というと、決してそんなことはないと思っている。
盛んに報道されていたが、津波は何度も繰り返し発生することでその高さを増すことがあり、第一波よりも第二波、第三波の方が高いということがある。それを考えると、第一波到達後であっても避難しておく判断は正しかったと考えている。
③について、これが最も大きいと考えている。確かに今回実家はハザードマップの津波警戒区域から外れており、標高も十分にある。しかし、万が一ということがある。とりあえず避難しておいて、問題なさそうなら家に戻ればよいのだ。
車で避難所に向かうのが正しかったかについては難しい。なぜなら、地震により道に亀裂が入っていたり、家が崩れている可能性があったからだ。実際、最も揺れの大きかった石川県の能登地方ではそのようなことがあったようだ。
しかし、今回はあらかじめ窓から周辺の道に異常がないことがわかり、かつ主目的が一刻も早く津波の危険がある地域から逃れること、そして何よりも足腰に不安のある祖母を連れての移動であったことから、車による移動が最善であったと考えている。
最も反省すべきは、母を連れて1つの車で避難しなかったことである。後々はぐれる可能性が極めて高い。また、母は携帯電話を持っていないので連絡手段もない。ここで強硬にさっさと母を車に乗せるよう主張し、一緒に中学校へ向かうべきであった。

2024/1/1 16:45 避難所到着

事象

中学校に向かう途中に何台かほかの車を見かけたが、向かう方向はやはり中学校であった。
中学校の駐車場に到着するとかなりの数の車があり、既に武道場が避難所として開設されているようだった。もっと大きい体育館でなく武道場が避難所となっていることを疑問に感じて口に出すと父が「おそらく武道場がいっぱいになったら体育館を開放するのだろう」と言った。
今回の避難の主目的は「津波が到達する恐れのない場所で、家に戻ってよいか判断するためにしばらく様子を見る」であったので、避難所には入らず車の中でしばらく様子を見ることになった。10分と少し待ったところで母の車が駐車場に到着し、母がこちらの車の助手席に乗り込んできた。

対応

母はすぐ近くに車を停めてこちらの車に乗り込み、毛布、市販の避難袋、ホッカイロ、マスク、ラジオ、懐中電灯などを渡してきた。
母は祖母にいつも服用している薬を持ってきたか尋ねて、祖母が「持ってきた」と答えるとビスケットの缶を渡してきた。これを食べて食後の薬を飲んでおくようにということらしい。
まだお腹が空いていないということだったのと、夕飯までに家に戻る可能性があるのとで、今薬を飲むのは見送った。
祖母は90歳になるが、こんなことは初めてだと言った。
ここで避難所である現在地、中学校の標高を確認すると、30m以上だったので安心した。標高の確認には国土地理院の地理院地図を使用した。


全員着こんできたのと、毛布を持ってきたのとで暖房がいらなくなったので、エンジンを切ることになった。エンジンを切ると車のラジオが点けられなくなったので、母が持ってきたラジオをつけて、そこからしばらくは車の中でじっとしていた。駐車場には車が次々と入ってきていた。

反省

中学校の敷地は広く、様々な施設があり、それに合わせていくつもの駐車場があるので、10分程度で母が父の車に合流できたのはかなり運がよかったと言える。
父は「母の車にお前が同乗しておけば、私の携帯とお前の携帯で連絡を取り合いつつ合流できたのではないか」と言っていた。また、母は今回の件で携帯電話の必要性を痛感し、今度契約する予定であると言っていた。

2024/1/1 17:30 避難所のトイレへ

事象

避難所の駐車場に着いてから1時間ほど経過し、辺りはすっかり日が落ちていた。父が水を買いに行くと言い、車を降りてやや遠くにある自販機に水を買いに行った。車中には僕、母、そして祖母の3人が残った。
ここで祖母がトイレに行きたいと言い出した。目の前には避難所となっている武道場があり、母が持ってきた避難袋には携帯トイレが入っている。また、母は一度車で家に戻ってトイレに行く方法もあると提案した。

対応

まず、家に戻るのは僕が却下した。避難した意味が全くない。車中のラジオではアナウンサーが盛んに「避難している人は絶対に家には戻らないでください」「すぐに安全な場所に避難してください」と繰り返していた。
目の前に武道場があるので、そこのトイレまで祖母を連れていくことになった。父が車に戻ってくる予定なので、車に鍵はかけずに外に出た。
祖母が杖をつきながら移動するのを介助しながら武道場まで歩いて行った。歩行速度は祖母に合わせることになるので、それなりの時間がかかり、祖母も息切れしていた。
避難所となっている武道場では玄関に受付があり、盛んに人の名前がアナウンスされていた。
母が係員にトイレを借りていいか尋ねてOKをもらうと、祖母を障害者用トイレに連れて行った。ここで僕は父に携帯電話で連絡を取り、3人で祖母をトイレに連れて行ったことを伝え、父がすでに車中に戻っていることを確認した。
元日で帰省中の人が多いのかトイレには子供も多かったがやはり老人が多く、障害者用トイレが使えるまでには少し待つこととなった。
祖母が用を足している最中は僕が扉の前で待機し、使用中であることを並んでいる人に伝えた。
女子トイレはかなり並んでいたが、他の場所のトイレは空いているということだったので、母はそちらに向かい、僕と祖母で車に戻ることになった。
車に戻るのにも祖母の歩行速度に合わせるのでかなりの時間がかかり、戻る途中に母が用を済ませて追いつき、車に戻った。
ラジオは依然として津波に関する警告を発している。ひとまず18:30までは様子を見て避難所(の駐車場)に留まることにした。

反省

絶対に車いすを持ってくるべきだった。
祖母は杖をついて歩くことができるが、普段から車いすを手押し車のようにして移動していた。足腰の弱い老人がいる場合、特に車いすを用意しているほど足が悪い場合、彼らにとって最も楽な移動手段が必須である。
短時間の避難であっても、トイレに行くなどで移動することが考えられるので、今後このようなことがある場合には絶対に車いすを持っていくべきであると痛感した。

2024/1/1 18:30 家へ

事象

18:30まで車の中で待機し、携帯やラジオなどで情報収集に努めた。
富山に来た津波は16:30ごろの80cm程度の第一波以降は確認されていないこと、余震がだんだん少なくなってきたこと、夕飯に近くなってきたこと、周囲が暗くなったことなどを鑑みて、避難を終えて実家に戻ることになった。母は父の車から降りて、自分の車を運転して帰った。
ラジオでは瓦が落ちたという情報、停電があったという情報、ツイッターではファボーレの天井が崩落したという情報などが流れてきた。

対応

家に帰った。元日だったのが幸いして、お節料理やお雑煮のあまりがあったので、特に調理を行うことなく夕飯にありつくことができた。
テレビでは衝撃的な映像が流れていた。新潟の上越で川を津波がさかのぼる映像、富山でも地震のときに川の水が凄まじい勢いで揺れる映像などがあった。
夕飯を食べた後、温水を家に巡らせるシステムについて、とりあえず今晩中は切ったままにすると言われた。また、母は揺れが怖いので2階ではなく1階で寝るということだった。
帰ってからいろいろ確認すると、戸棚のガラスコップが割れていたことがわかったが被害らしい被害はこのくらいだった。大きな破片を軍手をつけて除去して新聞紙にくるみ、小さい破片は小さなほうきとちりとりを使って除去、最後に残った粉のような破片は軍手をつけた手で粘着テープを使って除去した。

反省

ガラスが割れると結構処理が大変で、父が素手で大きな破片を取り除いた(よくない)後に僕が軍手をつけて破片を処理していたが、粘着テープで取り除く段階になって大きな破片が出てきて腰を抜かした。素手だったらと思うとぞっとする。
ちなみに母が掃除機で吸い取ることを勧めていたが、故障の原因になるおそれがありあまりよくないらしい。

結びに

災害で避難するということを、僕は今まで経験したことがなかった。
それはとても幸運なことなのだが、避難に伴いどのような準備や対応が必要なのかを全く理解していなかったことを痛感した。
また、幸いにして僕が受けた被害は大したことはなかったのだが、今回の地震で生活が大変なことになってしまった人たちが大勢いる。
そのような人たちのために現在LINEヤフー株式会社が募金活動を行っている。以下のURLから、クレジットカードやTポイントで寄付を行うことができる。特にTポイントは1ポイントから寄付できるので、Tポイントが余っている人や生活に余裕がある人はぜひ以下のURLから寄付をお願いしたい。

今回の地震で被害を受けた人すべての幸運を祈り、記事の結びとしたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?