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小学校の体育は体力向上のための教科なのか?ー白旗和也(日本体育大学教授)×佐藤壮二郎(フラッグフットボール・筑波大学SA)対談【中編】

2019年2月、「学校という船で、未来への航海に出よう」というビジョンを掲げ、小学校の体育・音楽の課題解決と発展を目指す新プロジェクト「ENGINE」が始動。

今回はENGINEのプロジェクトメンバーである日本体育大学・白旗教授と日本フラッグフットボール協会設立委員で筑波大学スポーツアドミニストレーターも務める佐藤壮二郎氏が、「これからの学校教育」「学校における体育の可能性」について語った対談の中編(第2回)をお届けします!

体育は体力向上のための教科なのか?

(佐藤)
冒頭の対談を通して、学校の価値の高さや体育の課題、そして学校の先生方の負荷などが整理されてきたと思います。そこで、少し体育に寄って話を続けたいと思います。

「体育=体力向上」という思考を持った教育関係者もまだまだ多いと思っていまして、現にフラッグフットボールの授業を伝達する時にも、「これだと体力を全然使わない」とか、「持久力を使わない」「汗をかかない」「体力が向上しない」と度々指摘されることもありました。

もちろん学習指導要領でも体力向上は一つの要素として出てくるかと思いますが、そもそも体力を上げる為には授業時間数が限られていますし、限られた時間の中では体力以上に「子どもたち一人ひとりの運動での成功体験」の方を優先すべきではと思います。

「体育=体力向上」という視点がまだまだ多いことについてはどうお考えでしょうか?

(白旗)
体力というのは分かりやすいのでとびつきやすいのかなと思います。体育の目標の中では、「体力の向上」という言葉も出てきますが、これは「方向目標」というもので、「具体目標」ではありません。

学習指導要領をよく読んでいくと、「運動が好きになって、運動に積極的に取り組んでいった結果、体力向上を目指す」というような考え方が書いてあります。

そもそも数値を上げることを目的にすれば、主体的な学びではなく、とにかく特訓させるのがいちばんですよね。ひたすら走らせるなど。否応なしに訓練していけば、数値は上がり、「見かけの体力」は上がると思いますが、これで運動が嫌いになって、学校を卒業して「やっと運動をやらなくていいんだ」となり、全く運動をしなくなれば、将来的には体力は下がってしまいます。

これは本末転倒で、好きになって運動を続けていった結果、体力が高まった、というのを目指さなければ、「豊かなスポーツライフ」には繋がらないと思います。

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生涯に影響を与える体育の経験

(佐藤)
「豊かなスポーツライフ」を送れるかどうかが小学校から始まっている。これはとても重要な視点ですね。やはり私がいままで現場を見てきて注目しているのは、これは研究等では証明しづらいのかもしれませんが、「体育で何かが出来て褒められた時」は子どもたちの人格を変えてしまうくらいのパワーがあるということです。

例えば、国語の何かの問題が解けた瞬間と比較して、体育でずっと出来なかった逆上がりが出来て、友達が褒めてくれたり、ハイタッチしにきてくれた時の成功体験は、人生に影響を与える程の強力な自信をプレゼントしてくれます。それこそが「スポーツ本来の価値が現れる瞬間」だと思うのです。 

体育においての成功体験が提供できると、子どもたちの自信や自己肯定感にしっかり跳ね返る、そしてその体験が豊かなスポーツライフ=自発的な体力向上になっていくと整理できます。そしてその「出来た!」という瞬間を創り出すことが、「小学校での体育の重要性」だと考えられます。

(白旗)
体育・スポーツというのは、自分の変化が分かりやすいですよね。「今まで出来なかった逆上がりが出来た」瞬間、というのは全く世界が変わってくるので、その後の鉄棒に対する意識が変わる。そして鉄棒だけでなく、「自分も頑張ればできるんだな」と人生に跳ね返る自信が付きやすい。

あと同じ「出来た!」「分かった!」でも、他教科と違うのは、体育は頭と体と心と3つに関わっていることだと思うんですね。国語や算数だと、頭で考えて「出来た!」なのですが、身体を動かす時は、3つを全部使うので、達成感がとても大きい。それが私としても強く感じるところですね。

ですから授業で考えれば、その子が「目指したいものがあること」が大切なのかなと思うんですね。体育はスポーツ選手になる為にやるのではなく、「自分は○○が出来るようになりたい」とか、「もう少し記録を伸ばしたいな」という願いがあって、そこをクリアした瞬間にその子の「出来た!」が生まれて、そして「自分は頑張れば出来るんだ」という過程にもつながる素晴らしさがあると思います。

(佐藤)
個人に合わせた「子どもたちが目指したい目標設定」は本当に大切ですね。その目標を目指す過程にも知・徳・体が全て込められているのが体育。

「人生を生きるための自信を育てるために、体育を位置付けていく」という観点は本当に重要だと思います。

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得意な子と苦手な子の二極化

(佐藤)
このように考えていくと、公教育の場合は「みんなが平等に学ぶ権利を持つ」=「みんなが体育で成功体験を味わえる機会をつくる」ということが重要だと思うのですが、体育で球技をやった場合、「得意じゃないから、上手く参加できない」などお客さん状態になってしまう子どもたちは、その学ぶ権利を失っているのではないかという問題も出てくると思うんです。

苦手な子が参加できていない、参加しようとしない、という現場も白旗先生は今まで多く見られてきたと思うのですが、運動の得意な子・苦手な子の二極化にどのように向き合うべきでしょうか

(白旗)
「日本の教育の良い部分」と「これから変化する必要のある部分」と2つがあると思います。例えば運動会だと、「かけっこがあり、集団競技があり、ダンスがある、というのが日本の運動会」だというような考え方がありますが、海外で運動会をやると全く違うものになるんですね。「なんでわざわざ人の前で、足の遅い子の姿を見せなければならないのか」という意見もあり、かけっこはやらない国が多いんです。

日本の場合、伝統的にずっと同じスタイルで運動会を行ってきているので、「運動会というのはこういうものだ」という先入観があります。かけっこを一切やらない、ダンスをやらない、というのは日本の教育界では勇気のいることです。

そうするとそのスタイルに上手くあてはまる子とあてはまらない子で、得意・不得意の二極化が作られてしまう、という問題が起きると思います。

体育の場合は集団でやるものも多いですよね。例えばバスケットボールをやって、5人のうち3人の子が「得意な子」であれば、その上手い3人だけでプレーしたほうが、点は入りやすくなる。苦手な子にパスを回すことで相手にボールを奪われてしまうということになれば、3人でやるほうが良くなってしまいます。

しかし、「学習」という点で考えれば、全ての子どもたちに学ぶ機会を保障しなければなりません。他教科ではこのような事はなく、「君は算数が苦手だから、この問題を解かなくてもいい」ということはありません。ところが体育だけは、苦手な子どもが1回もボールに触らないまま授業が終わる、ということもあるのです。ここは気を付けなければならないところです。

苦手な子でも、少し機会を与えるだけで劇的に変わるということもあるかもしれませんし、そのチャンスをきちんと作ってあげるのが学校で重要なところだと思います。二極化と決めつけてしまっているだけで、苦手な子でも機会を与えることで変われる可能性がある。

そして、その機会の活かし方、つまり、自分の動き方、役割の果たし方をサポートしてあげることが必要です。少しでも、達成感、ゲームでの所属感が感じられれば、運動有能感を感じ変わっていくきっかけになります。

特に低学年ですね。中学校で運動の苦手な子にインタビューしてみると、「小学校の低学年くらいで苦手意識がついてしまった」場合が多いです。低学年でまだそこまで技能差が無い中で、苦手意識を植え付けてしまうのは、気を付けなければならない点だと思います。

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自信を持って体育を教えられる先生は少ない?

(佐藤)
国・算・理・社のような科目であれば、先生側にも明確な答えがありますし、教員免許を取られる時にも勉強されていますし、先生たちも「教えられる」と思っていけると思います。しかし体育になると「体育を十分に教えられる先生」というのはそもそも少ないと思います。

小学校の教員免許で体育を中心に勉強はできませんし、体育では30~40人といった子どもたちを「コーディネートする力」や「高揚感を創り出す力」も必要になってきます。

また、女性の先生の比率が7割近い小学校において、スポーツにそもそも苦手な先生も多くいらっしゃると聞いています。

(白旗)
やはり体育の難しさとしては、拠り所がはっきりしていない、という点があります。算数や国語であれば教科書がありますし、それに基づいた指導書があり、これは国が検定をしているものですので、そこに沿ってやっていけば、指導すべき事が概ね網羅されていく。

それに対して体育の場合は検定教科書が無い(※保健領域のみ教科書がある)ですし、当然それに基づいた指導書も無いですので、先生たちが「体育」というものを理解するのがそもそも非常に難しいのだろうなと思います。

さらに今出てきているのが、「運動の得意な人でないと、体育は教えられない」という先入観は一つ大きいかなと思います。各自治体には研究部というのがあり、算数や国語など様々な研究部がありますが、体育の研究部はそういう先入観が大きいことが影響しているのか、ほとんど男性しかいません。感覚的に8~9.5割は男性です。

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【補足】
白旗教授の研究においても、男性より女性の方が、体育の指導に苦手意識のある先生が多い事が分かっている。※参考:小学校教員の体育科学習指導と行政作成資料の活用に関する研究(2013)/白旗 和也

(佐藤)
講習会などをやっても、圧倒的に男性の先生が多いですよね。

(白旗)
ただ実際に授業を見ると、女性の先生でも非常に良い体育の授業をされる方が沢山いらっしゃいます。指導という事を考えれば、自分が動きのお手本を見せる必要はありません。別に自分の技能が高くなくても、指導すべき事がちゃんと出来れば良い。しかし、「できない」と思い込んでいる先生が非常に多いことは大きな問題かと思いますね。 それは、先入観以外の何ものでもありません。

(佐藤)
自分は体育が得意ではないと思い込んでいる多くの女性の先生たちの視点でみれば、それはイコール「素晴らしい体育の授業像」がわからないということだと思います。さらに教科書などで正解が提示されていない。しかし、スポーツは元々そういうもので、プロスポーツや部活スポーツでも指導に「正解」はありません。

(白旗)
やはり授業というものは、子どもがいて、教える内容があって、指導方法が決まってくるので、「これ」という指導方法の正解は出せないでしょうね。その為に、先ほどいった「運動の出来る人でないと、体育は教えられない」という先入観の他に、「技能が高くなる授業が、良い授業」と思っている先生も多いと思います。

もちろん体育ですので、技能を身に付けずに良い授業ができるとは思っていませんが、体育で求められる技能は、実は少ないんですよね。「転がってきたボールの正面に入れる」とか「落下地点に入れる」とか、小学校では、かなり限られています。

体育で目指されている技能は、選手になる為に必要な技能ではなくて、どの子も楽しめる為に必要な技能なのですね。実際、小学校学習指導要領解説を見て頂くと「何だこれくらいでいいのか」ときっと思えるのではないかなと感じます。重要なのはできるようになるだけでなく、どのようにできるようになるかです。ですから「良い関わりあいが出来る」などの部分もとても重要なのです。

ボール運動であれば、子供たちは、「勝ちたい」「得点したい」と思っていますから、良い授業をしていると、子供たちは「勝つにはどうすればいいか」「もう少し上手くやるにはどうすればいいか」など自然に思考が生まれてくるんですね。これらがバランス良く磨かれていくのが、体育の授業だと思います。学習指導要領もそれを目指していますし、子どもが夢中になれるような授業をしていると結果的に学習指導要領の内容を網羅するような授業になっていくのかなと思います。

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役割分担型の授業

(佐藤)
今までの活動の中で、役割分担型の体育というのを提唱してきました。子どもたちの向き・不向き、興味・関心の違いは当たり前のもので、その上でまず「共通の目標」を設定する。

そして、それぞれみんなでアイデアを出し、役割を分担しながら、一つのゴールに向かっていくという授業のあり方を具体化するために“作戦図をみんなでつくる”「フラッグフットボール」という体育プログラムを開発してきました。「役割分担」という視点は今後どのように見ていくべきでしょうか?

(白旗)
みんな一律で同じということはたぶん出来ないですよね。現在の学習指導要領の中でも、「チームの特徴に応じた作戦」などの表現が出てきます。そうすると関わっている構成メンバーが変わってくると、たぶん戦い方が変わってくると思います。

バスケットボールで、背の高い子が何人かいるチームとそうじゃない子のチームとでは作戦は変わってきます。その中でも背の高い子の役割とスピードがある子の役割、もしくは運動では活躍が難しくても、作戦を考えるのが得意な子、観察する力が優れた子など「私はこれが出来る」というのを生かしていくのは、将来生きていく上でも大切だと思います。おとりになる動きも大切ですし、教師はそこにも触れていくと、自分ができる役割が見つかっていくと思います。

(佐藤)

社会に出れば、営業部とマーケティング部と経理部がそれぞれの役割を分担して、会社の同じ目標に向かうというのは当たり前の光景です。よって体育のみならず様々な授業で「役割分担」 のキーワードを組み込んでいくことも、「社会で生きていく力」を育成するためにとても重要な要素となっていくと思います。

(後編へ続く)

文=櫻井義孝、写真=栗原論


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