思弁逃避行 14.チョップスティック

 人間は、棒に依存している。

 先日、箸を使っていて思ったことだ。今こうして使用している箸だけではなく、便利な道具は棒状のものが多く浮かぶ。ご飯を口に運ぶ箸だって、こういった散文を書き留めるペンだって、洗濯物を干す竿だって、魚を釣る時の方の竿だって、のちに世界を救う勇者が最初に手に取るものだって、全て棒だ。手始めは棒だ。棒は偉大なのだ。

 それにしたって箸というこの道具、いくらないんでもただの棒すぎやしないか。試しにフォークやスプーンと並べて考えてみよう。
 物を刺し、口へ運ぶという行為に特化し、より安定して物をさせるように先端が四つ股に割れたフォーク。細かな粒や液状の物を掬い取ることに特化し、平たく膨れ上がった先端をくぼませたスプーン。それに対して、棒二本、箸。
 なめているのだろうか。こんなにも工夫を尽くしたカトラリーに対し棒二本。なめくさっている。しかしこれがまた使いやすいのだから誰も文句は言えないのだ。はさみ、切り、刺して、寄せられる。食べることにおいて必要なことのほとんどがこの棒二本でできてしまうのだ。なので、それ以上のものがいらない。それだけのことだ。それだけ棒が万能な道具になり得るという話なのである。

 この棒というのは物質的なものだけではなく、記号としても重宝される。文章で親しい友人などと連絡を取りあっている中で相手に自重を促すことがある。そんな時にもし棒がなければ我々はこう送るしかない。
 「ふざけるなよ」
 怖すぎる。反省してしまう。もちろんそういう意図があるのならばそれで問題はないのだが、そうではない場合が多い。なので誤解がないようにこう伝えるべきだ。
 「ふざけるなよ(無論ふざけて良い。表面上ではこうやってお前を諭しつつも、このような馴れ合いが交友関係の中で大切だと俺は知っている)」
 嫌すぎる。くどいし寒すぎる。わざわざ書くんじゃないそんなことをお互い思うだろう。しかしこんな中に棒があれば、そのような悩みも吹き飛んでしまう。
 「ふざけるなよー」
 全く反省する必要がない。そもそも反省する気にもならない。この棒が文体の真剣さ、無機質さをはじき飛ばしてしまっているのだ。こんなに便利なものは現実世界にはない。あるだけで言動に柔らかさをもたらす棒が実在したら、始終手放しはしないだろう。文面の世界でも我々は棒に助けられているのだ。

 改めて日々棒に依存した生活を送っている。前述の通り、私も棒がなくてはこの文を書き留めくこともできない。文体をふんわりさせることもできない。何より、棒を持った時のあの高揚感がない世界ではもう生きていけない。そう遺伝子に刻み込まれているのだー。

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