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心理療法序説 (岩波現代文庫)

2年くらい前に河合隼雄の著作を読みまくった時期があったけど、まず1冊選ぶならばこれ。

ノリと勢いで付けた自然(じねん)経営という言葉だったけど、この本の中で心理療法における「自然(じねん)モデル」が提唱されていて、それが自然経営で言い表したいこととあまりに近くてシンクロニシティを感じた。(ちなみに、この心理療法のモデルが必ずしもこの本の主題ではなく、より包括的に「心理療法とは」を語っている一冊ではある)

4つの心理療法のモデルについて

以下の4つがあり、上部のほうが「治す」、下部のほうが「治る」という傾向が強い、と捉えている。

医学モデル
教育モデル
成熟モデル
自然モデル

医学モデルは、西洋近代の医学に基づいた考え方によって成り立っている。

症状 → 検査・問診→病因の発見(診断) → 病因の除去・弱体化 → 治癒

という流れで捉えられ、治癒すべき「部分」を特定し、そこの病因になっているマイナスな要素を除去する。いわゆる因果的な思考であり、機械的なパラダイム("時計仕掛けの宇宙")の世界観によっている。

教育モデルも同様に因果的な思考に依っている。

問題 → 調査・面接 → 原因の発見 → 助言・指導による原因の除去 → 解決

という流れであり、因果関係の「原因」を内面的な要素に求め、その心理の特定の「部分」に対して、外部から働きかけようとする。上記のモデルで見て取れるように、基本的な構造は医学モデルと変わらない。
ただし、河合隼雄自身は、この本の中では「このような考えも実際にはほとんど有効ではない」とも言っている。(助言や指導では問題が解決しないから、心理療法を受けに来ている…)

成熟モデルは、これまでの「原因を直す、取り除く」という因果的な思考ではなく、治療者の態度のほうに注目する。

問題、悩み → 治療者の態度により → クライエントの自己成熟過程が促進 → 解決が期待される

「端的に言えば、心理療法はクライエントの自己成熟の力に頼っているのである。」という著者の一言に表れているように、外部から「治す」のではなく、クライエントが自らの力によって「治る」ことを重視している。
治療者の役割は、「クライエントの心の自由な働きを妨害しない」ことであり、さらには「それによって生じる破壊性があまりに強力にならぬように注意すること」だとしている。

自然モデルは、河合隼雄自身が提唱しているものである。成熟モデルは、クライエント自身の自己治癒力に委ねているものの、「治療者が関わることで、クライエントの自己治癒力が発揮される」という構造である以上は、根底には因果的な思考が根付いている、と捉えられる。
それに対して、自然(じねん)、すなわち「オノツカラシカル」という言葉の通りに捉えているのが自然モデルであり、「ある意味では、心理療法の本質を最もよく示していると思われるものに、仮に「自然(じねん)モデル」と筆者が呼ぶ考え方がある」というものだ。

これはユングが中国研究者のリヒャルト・ヴィルヘルムより聞いた話として伝えているものである。ヴィルヘルムが中国のある地方に居たときに干魃が起こった。数ヶ月雨が降らず、祈りなどいろいろしたが無駄だった。最後に「雨降らし男」が呼ばれた。彼はそこいらに小屋をつくってくれと言い、そこに籠った。四日目に雪の嵐が生じた。村中大喜びだったが、ヴィルヘルムはその男に会って、どうしてこうなったのかを訊いた。彼は「自分の責任ではない」と言った。しかし、三日間の間何をしていたのかと問うと、「ここでは天から与えられた秩序によって人々が生きていない。従って、すべての国が「道(タオ)」の状態にはない。自分はここにやってきたので、自分も自然の秩序に反する状態になった。そこで三日間籠って、自分が「道」の状態になるのを待った。すると自然に雨が降ってきた」というのが彼の説明であった。
ここで注目すべきことは、彼は因果的に説明せず、自分に責任はないと明言した上で、自分が「道」の状態になった、すると自然に(then naturally)雨が降ったという表現をしているのである。ここで、中国人がヴィルヘルムに言うときにどのような用語を用いたかは知る由もないが、彼が「道」のことを語る点から見て、老子『道徳経』に用いられる「自然」の話を用いたものと推察される。

#河合隼雄 #西洋と東洋 #心理学

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