お笑いはエンタメではない。自分の教養の度合いを見るための指標である。
お笑いを見始めて、かれこれ15年くらいになる。正確に言うと、お笑いとして意識して見始めてから15年だ。
ドリフやバカ殿などは小さいころから欠かさず見てきたのだが、あれをお笑いとは認識していなかった。『なんか楽しいことやってる人たちが出てくるやつ』くらいにしか思ってなかったんだろう。
もちろん楽しみにしていたのは確かだ。ただ、何も考えず馬鹿笑いできる時間がものすごくよかったなぁと感じている。
サンドウィッチマン
お笑いをお笑いと意識し始めたのはサンドウィッチマンを見てからだ。Wikiによると、2005年に初めてエンタの神様に出演したそうだ。
その時の記憶ははっきりはしていないが、とにかく今週はサンドが出ないのか、外れの週だな。と思うぐらいにはドはまりしていた。
言い間違いを訂正するような掛け合いが、全部面白くて頭の中で再生できるほどには見ている。
ただ、気になった部分があった。家庭訪問のネタだ。
伊達扮する小学校の先生が家庭訪問したときに、富沢扮する変なお父さんに対応されて、変な感じになってしまう、というネタだ。
その中で、こんなやりとりがあった。
富「うちのまさしは学校で悪いことしてませんか?校舎の窓ガラス壊して回ったり。」
伊「尾崎(豊)じゃねえか!そんなことしてませんよ。大丈夫ですよ。」
富「本当ですか?ゴルフクラブ振り回したりしてないですか?」
伊「尾崎将司じゃねえか!なんで急にジャンボ尾崎の話になるんだよ!」
雰囲気とか勢いで、なんとなく面白いことを言っているのはわかったのだが、内容が一切わからなかった。
母親は爆笑していた。
ネタ全体を通して面白かったのは確かだが、解せなかった。何も考えず笑う、というの以外のも『面白い』が存在するのかと考えさせられるきっけになった。
勉強し続ける理由
サンドウィッチマンから派生して、ナイツや中川家などのゴリゴリ漫才を見るようになると、余計に知らない事で自分の笑いが減っているように思えた。
世の中のことをある程度知っていないと、お笑いすらまともに吸収させてもらえない世の中なのか!と驚いたものである。
絵画などのアートは、絵そのものの美しさや技法の素晴らしさだけではない。という論説を読んだことがある。
その絵が描かれた背景や、いつの時代のものなのか、どの国で描かれたものなのか。そういったことを知らないと、アートを見て楽しむことは本質的にはできないらしい。
お笑いも同じである。
お笑いを死ぬまで楽しむために、私はこれからも勉強を続けていく。
勉強する理由は高尚なものじゃなくてもいいのだ。
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