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(私のエピソード集・28)白い手袋

親友のMが提案してくれた〈白い手袋〉を、手に入れることができたのは、高校卒業式後の春休みの終り。なんと、英語のO先生に買ってもらうなりゆきとなった。

O先生を変わった先生だな、と感じたのは、高2の時だった。英語担当なのに、クラス全員に、トルストイの『イワンのばか』を日本語で読んでこい、という宿題を出したのだ。

翌週、先生は全員に、「ひとことで感想を述べよ」と、要求した。みんな、エー! とお決まりの反抗的嬌声を上げたが、仕方がない、座席順にひと言づつ、投げ出すように答えていった。

圧倒的に多いのは「面白かった」で「よかった」「難しい」も時々あった。私はただひとり「じれったい」と答えた。当時の私には、何もかも受け入れて、決して反論しないイワンは、「じれったい」か「呆れる」しかなかった。最終的には、妻の姫も国民もバカを自認し、軍隊も金も必要としない、自分の体で働くことを喜びとする、幸せな国の王様となっているが、トルストイの夢想よ、と深遠な思想など、汲み取れてはいなかったのだ。

たぶん、先生は「じれったい」と答えた私の真意を、もっと問いたかったのだろうか、何度も図書室主催の「読書会」に私を誘った。が、私は一度として出席しなかった。

図書貸し出し一位の常連だったほど、濫読は続けていて、感動や共感、反発などを心にためこんではいたが、人前で充分に口に出して、言葉にしきれない力不足を、さらけ出したくないプライドも強かったのだ。

O先生は、英語の訳問題の答案に、「ヤツが死んだ。照りつける夏の日差しの下で・・」などと書く私に、花丸をくれて「見事! ただし受験の時には、なるべく直訳で!」と赤ペンを入れてくれていた。

高3の夏休みに英語の質問を持って、街中の先生宅を、ひとりで訪れたことがある。いつでも質問においで、とクラスで宣言していたから、勇気をふるって出かけたのだった。

驚いたのは、おびただしい数の英語の小説類が、家中にあふれていたことだ。本屋の店先で見かける4、5段の回転式陳列台が、6畳ほどの狭い部屋から、廊下にまで5台もあり、壁際の本棚にもぎっしり並んでいる。これを全部読んでいるのか、と驚嘆し、他の英語の先生とは違う、とあらためて思った。

そして高3の3月、東京の女子大入学が決まり、母は私の寮に送る、布団や衣類の準備に追われていた。母が私の仕送りに、頭を悩ましていることも、察せられた。京都で大学4年になる兄への仕送りもあったのだから。

それで、どういう手づるだったか、私は近所の小さな工場で、上京直前の4月7日までのアルバイトを、自分で見つけてきた。庶民的食堂に納める、割り箸などを作る箸工場だった。細長い木片をカッターで、箸の長さにカットするのが、私の役目だった。

一度に何10本も片手で押さえて、電動カッターでバリバリとカットする時の、強い圧力で手はしびれ、肩は張り、3月なのに汗がにじんだ。

コンクリートの床に、毎日山ほどの箸の山ができていく。これを消毒して、店に納品するのだろうか。消毒なしなら、不潔だなと思ったものだ。

3月半ば、私は高校へ、卒業証書を受け取りに出かけた。卒業式は東京での受験日と重なり、出られなかったのだ。

その日、O先生とぱったり出会った。上京までの休み中に英語の勉強はしておけよ、と言われた。私は英文科を目指しているが、実は自信がないと打ち明けた。先生の部屋の膨大な数の英本が、頭をよぎった。あのどの1冊にせよ、英書を1冊読み通したことはないのだから。

すると先生は、上京するまで、うちで英語の本を読もう、毎日でもおいで、と言ってくれた。時間を決めようとする先生に、お箸工場のアルバイトの時間を告げると、そうだったのか、と深く考えこんだ末、1日おきに夕方訪ねることになった。

毎回冷や汗が出るほど、厳しくしぼられた。エッセイの名文集だったが、途中までしか終えられずに、最終日となった。

用意しておいたお礼金を差し出すと、先生は真っ赤になって怒った。君は工場で働いてるんだろう、そんな貴重な金を受け取れるか! と。うなだれて包みをひっこめると、先生はとたんに穏やかな優しい声になって言った。

「進学祝をあげよう。何がいいかな」

思いがけなくて、咄嗟には声が出なかったが、何度も促され、気がつくと「白い手袋」とつぶやいていた。先生は驚いた様子だったが、奥様と私を連れ近くの洋品店へ行き、私には白レースの、奥様には黒レースの手袋を求めてくださった。

「女の人はこういうものが欲しいのか」と感じ入りながら・・。(実は、東京で実際に使ったのは二度だけ。恥かしがりと、もったいなさで使えず、黄ばんでも50年過ぎても、大事にしまいこんでいた) 

手紙や賀状を送りつつ、遠く離れて日が経ち、先生は大学の教授となり、昔話収集の分野でも活躍されていた。そしてある年の3月末に「会いたいなあ」とひと言添えた年賀状の返事が届いた。

3ヶ月も遅れた返事が、何を意味するかに思い至らず、多忙に紛れてそのまま過ぎた半年後、死去の知らせを受けた。驚愕! 痛恨の極み!  早くに気づいて、駆けつけるべきだったのに! 

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