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 3章-(4) 結城君の身上書

先生とペアがいい、結城さん、お先に、と香織は言ってしまった。

「これはひどい。ふられちゃいましたよ、 先生!」

結城君は、若さまに訴える。先生はすぐに言った。

「それはひどい。笹野はくじ運の女神に従うべきだ。僕には日野先生と
いうペアがいるしね。それはそうと、笹野は、スタミナは大丈夫か?」

「だいじょうぶです!」

香織はそう言うしかない。

「案外やせてる方が、バテないんじゃないですか」

結城君は気楽にそう言った。

日野先生が、急に思い出したように言った。

「少し先の方へ行ってみるわ、ひとり気になる子がいるので。今朝、始まったそうなの、その子、行くのやめようかと、迷ってて・・」と、途中から
ないしょ話のようにつぶやくように言ったが、香織には聞こえて、すぐに 察した。先週に終っててよかった、でもその人大丈夫かな、と気になった。

日野先生は顔を上げると,大きな声で、
「最後尾は若さま、お願いしますね」
と、にっこり言い残して、どんどん先へと追いついて行った。

その後、香織、結城君、最後尾を若杉先生という順で、進み出した。先生は上手に質問を繰り出して、結城君の〈身上書〉を、香織の前に引き出して くれた。

結城君は18歳だが、高校2年生。それはポールも同じ。小学校から中学に かけての5年間、サンフランシスコに銀行員の父と、同行した母と3人で 駐在していたそうだ。

「ひとりっ子かい?」

「ええ、今は。もうひとり・・がいたんだけど、心臓が悪くて10歳で・・」

歯切れの悪くなった結城君の言葉を聞き取ろうと、香織は知らず知らず足を遅くして、結城君に近づいていた。先生の山靴の音が、ガッツガッツと耳障りで、聞き取れない語もあった。

「君の体格だと運動部にねらわれるだろ」

「そうですね」

救われたように、結城君の声が明るくなった。バレー部のレギュラーなの だって。バスケ部、サッカー部、ラグビー部、野球部に強力に引っ張られたそうだ。今はポールをもバレー部に加えて、6月の関東大会出場を目指して練習しているという。

「今日はよく来れたな」

「ポールが日本の山に登ってみたい、というのでつき合いました」

「君はラッキーだよ。小さいけど、気のいい子とペアになれたんだから」

ええ? 私のこと?〈気のいい子〉だって? そうかな? でも、先生がそう思ってくれてるんだ!

結城君はのどの奥で音を立てて笑った。若杉先生に対しては、皮肉な物言いも、揚げ足取りもしないことが、香織には目新しかった。

ヤッホー
ヤッホー                                   ご苦労さーん

木々の間から、はずんだ声が降ってくる。道は山道に入って、ひんやりと して薄ぐらい杉林の中を、うねった道が続いていた。

香織に続いて結城君が、その少し後を、若杉先生が変わらぬペースで追ってくる。やがて急な上り坂がつづいて、話はしばらく途切れていた。

香織は早くもあえぎ始めていた。汗はぐっしょり、息は切れ、頭がくらくらしてくる。夕べの編み物は止めておくべきだった。寝不足はいけないんだ、こんな時。後の祭りだった。

それにこのクラクラは、貧血のせいもある。4月の健康診断で、養護の橋本先生に注意を受けた。レバーとか、チーズとか毎日食べなさい。それが香織には実行できない。きらいなのと、寮の食堂に自分だけお願いするのは、控えたくて。せいぜい牛乳をムリして飲むくらいの努力しかできなかった。

急に我慢できなくなって、香織は立ち止まった。結城君がぶつかりそうに なって、危うく止まった。

「もう、降参かい」
「違います! 暑くって!」

リュックをおろし、チョッキを脱いでいると、若杉先生が追いついてきた。

「休憩には早すぎるぞ。心臓が足の運動に見あった動きをしてくれるようになるまで、そうだな、最初の20分は我慢して歩くんだ。リュックを下ろしたのなら、ついでに手ぬぐいを出す、アメも」

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