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お前のWikipediaなんか書きたくないんだけど

好奇心の赴くままに無責任に広げてしまった風呂敷を、ゆっくりひとつずつ、色んな方面に頭を下げながら畳んでいく。そんな数週間だった。陶芸教室のキャンセルと代理、文壇バーの店番とギャラリーのアルバイトの辞退・・・返信してなかったぼったくりのグループ展。(最後のはいいか)

収拾がつかなくなった常識を
別の常識で落とし前をつける
これが私の生き方だ
"外れず"に生きることは不可能だからだ。


明日は何を諦めるのだろう。


持て余した「辞める力」にのみ若さを感じるこのままならぬ肉体は、その若さに逆行して諦観に近い老いを帯びている。継続は力なり、何かを辞めるほど手放せないものへの意志が強くなっていく。

然程責任の重くない仕事にばかり就きながら、
責任とは何かを責任無しに考える。


最近は強い摩擦で大きな消しカスを生み出す、
消耗が旺盛な消しゴムのように生きている。


人を想うことにだって力加減が要ることを知った。
絶対に生きて欲しいと願う強力な願いは、相手からしたら殺意とあまり変わらないのではないかと思った。


変換されたエネルギーの光が相手に届く場合、翻訳される前の愛と憎しみなんぞ同一であると。

区別がつかないほど一緒くたになった呪いを解(と)いてあげたい時、愛する者のためにできることは後退りしかないのだ。


先月の7月28日は元恋人の誕生日だ。
おめでとうは言ったけれど、何も贈っていない。

だってその時、展示期間中だし
気絶と在廊を往復するだけのボロボロな身だし
あと我々はNotモトサヤだし。

「ねえ、私、望恵からなんにも貰ってないんだけど」

不貞腐れた感じでもなく、思いついたように乾いた感じでカラッと言う。


「私、Wikipediaに載りたいの」


こいつ、公募入賞歴もコマーシャルギャラリーでの展示歴もないくせに、ハッタリ野郎の向上心の塊だ。素晴らしいよ。形から入ることは大事だ。絵画は構図が8割だって予備校で習ったし。
そう、構図だ、構図。
やっつけ仕事のおまじない。
受験絵画の残り香が、生き方の輪郭に付随していて何が悪い。傷も泥臭さも生きた証だ。


noteに駄文をひけらかしては
奴の腰巾着のように燻っている私に僅かな光が回ってきた。それもそれで変な言葉だ。
「書きたくないんだけど」
この言葉が嫌がって見えるならそれは言葉の綾。
名誉なる美味しい贈り物だ。


タイトルの【お前のWikipediaなんか】ってやつ、
私は人に「お前」なんて言いたくないし言わないけど、「お前」って言った方がキャッチーだよねみたいな感じで、見え方を優先することは割とある。印象派よりもドイツ表現主義の方がタイプだから。

そういう私はと言うと、締め切りが迫って描かなきゃいけないものもあるが着手できていない。
なぜなら今の私は鬱でぶっ潰れているからだ。
大好きな友人との八王子での飲みも泣く泣くキャンセルした程だ。

終わんねえよこんなん、誰が良いって言ってくれんだよと
不貞腐れながら載せたらちょっとだけバズった絵の初手 
私には芸術がわからない


社会の歯車になれないから美術の世界に辿り着いて、自分の歯車になれないから一定リズムの画業にならない。自然なことだとは思う。

そして時間の歯車にもなれない人間こそが
秒針と数字の隙間から溢れ落ちるように鬱になるのだと痛感している。今の私が本当にそれだ。

ただこのままでは生きていけない。
気分の波が激しく、手帳を取る労力も上手く割けない見せかけの健常者だ。うっかり肉を付けすぎたガラクタ。私が陶器粘土なら、素焼きの時に自ら叫ぶように割れに行くだろう。ただ息がしたくて、上手にできなくて、吐けない空気を内側に含みすぎた。出たがりな希死念慮だ。

自分を取り巻く全てが速い。
私を待てる時空など存在しない。
この苦しみに唯一抗えるのが油絵具と画用液だ。
乾きが遅く、乾いてしまっても選ぶ液次第で絵の具を溶かし、時間を戻すことができる。
時を操作できる。そしてもう戻れない(戻せない)時間の厚みもマチエルとして肯定できるものになっていく。
寧ろそれこそ結果としての絵画だ。
いつでも私を待っていてくれて、優しく歓迎してくれる。器用に上手く向き合えなくても居場所が消えないというのは揺るぎない安全基地だ。


しっかり痛みたい
しっかり削りたい
逃げて苦しむより対峙して苦しみたい


話が脱線した。

要は、8月の私は死のうと思ったのだ。
その段取りをするために掛かりつけのカウンセラーに連絡したら止められた。予約時間外に、何時間も「なぜ死んだらダメなのか」「死ぬと周りがどうなるのか」を熱弁された。言い訳がましいのは承知だが、そういうことを希求していたわけではなかった。確実に順序立てて切実に生命から逃れたかった。

画像載せるの楽しい
無意味に載せちゃお


求めていることと求めていないことを適切に区別することはできない。その逆も然りで、求められていることと求められたいことを明確にすることも困難だ。解像度を上げることよりも解釈の幅を広げることで生きようとしてきた。

その人は私が払う相場よりだいぶ安い金額に対して3倍の時間で接してくれて、(よくない)私が後日振り込みに行くと「お外出られたんだね!えらいねもえちゃん!」って言ってくれる。なんでも話しちゃう。
歩く配給過多福祉。

話された内容について感動したわけではないんだけど、それはそれで申し訳ないけれども、けれど不本意にもよく眠れた。

それはそれとして、業務時間外の時間をたくさん使わせてしまった。なんか申し訳ないのでしぶしぶ生存が続いている。全てがとっ散らかっていて、とても生活とは言えない。
つまりこういうのは誰にも伝えてはいけないのだ。
夏たるもの、美しく逝けなければ。

また話が脱線した、いやしていないのかもしれない。

死にたいって言った。
掛かりつけの「歩く配給過多福祉」の他に、
藍ちゃんにだ。

「お前さんのWikipedia、やっぱ書く気ないからね」という意思表示も兼ねて。


強い、強すぎる。
生命力で殴るな。
居心地の悪いとも言い切れない生命力で殴るな。
人の首を掴むな。こちらの世に引き戻すな。


「あなたのためにあなたの人生を生きてほしい」
って言ってくれる人と
「私のために生きろや」
って言ってくれる人


自分には両方必要。弱いから。


あなたはどっちが好きですか?



今年の秋の目標は、金木犀を目視すること。
正確には「見ること」から入ること。
その花の存在を知る時、いつも香りから入るでしょう。毎年悔しいと思ってる。いつも鼻に負ける。

花が発する匂いからでしか、その花が咲いたこと気付けないのは誰かの痛みに気付こうとするアンテナの鈍りの象徴のようで悔しい。
「忙しなさにやられてるんじゃねえよ自分」
そういう自分の声が聞こえてくる。

叫びが耳に届かない限り人の苦しみに気付けない鈍感さを指摘されているような気分になる。

持つかな〜我がメンヘラ。

残暑の根強い夏がまだ続くようだ。

毎年なんにもできてない。今年くらいは。

周回遅れの誕生日プレゼントを執筆しよう。



「色本藍 概要 略歴 人物」

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