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教師残酷物語「はじめに」

投資としての教育

 教育は未来へ向けた“投資”だ。時間軸で言うと“今”じゃない。“未来”だ。
 子どもが立派な社会人となって納税をする。それを実現する基盤が教育だ。こう言うと、聞こえが悪いかもしれない。「子どもを金づるとしてしか見ていないのか!」と、批判の声が聞こえてきそうだ。しかし、これが原理だ。「金づる」ではなく、子どもは社会の「資本」だ。そう考えなければ、社会はサスティナブル(永続的)に成り立たない。これは良い悪いの問題ではない。ただの仕組みの話だ。
 ただし、これは必要条件であって十分条件ではない。子どもたちは資本で、教育は投資で、納税者を作り上げることで、社会を循環させる。これ“だけ”ではダメだ。なぜなら、このイメージだと“個人の幸福”という観点が抜けているからだ。大人になった子どもが、納税者として社会を循環させる、その行為に“幸福”が感じられなければならない。「社会への貢献」と「個人の幸福」が両立する形でなければならない。これが教育の目指すべきゴールであろう。
 ただ、そのゴールは“今”じゃない。10年先、20年先の“未来”だ。
 子どもが立派に成長し、社会をより良く変えるには時間がかかる。だから「10年先、20年先」という表現は誇張じゃない。リアルな数字だ。比喩じゃない。マジな数字だ。それくらい時間はかかる。

贈与としての教師

 ラーメン屋であれば、ラーメンを提供することで客を喜ばせる。理容師であれば、髪を切ることで客を喜ばせる。建築家であれば、家を作ることで客を幸せにする。エンジニアであれば、システムを作ることで依頼者の要望に応える。スポーツ選手であれば、試合に勝つことで観衆を盛り上げる。政治家であれば、政策を実現することで有権者に応える。
 世の中には「すぐに利益が出る仕事」と「すぐには利益が出ない仕事」がある。教育の場合、どうだろうか? 答えは後者だ。勿論、成績や偏差値の向上を目的とすれば前者である。受験の合格を目標とした場合も同様であろう。しかし、これらは手段や過程であって、目的や目標ではない。教育のゴールは、より良い社会の実現とより良い人格の形成にある。とした場合、教育は「すぐには利益が出ない仕事」に分類される。
 ここに教師の“しんどさ”がある。なぜなら、待たなければならないからだ。利益がでるまで待つ。「10年先、20年先」でも待つ。それが“投資”だ。
 しかし、だとしたら、教育は“投資”ではなく、むしろ“贈与”と言ったほうがいい。「あげっぱなし」の行為だ。なぜなら、「10年先、20年先」というロングスパンの未来ではリターンが確認できないからだ。これは、単純な「Give & Take」のロジック(交換の原理)が成り立たない、ということを意味している。例えば、教師が大いに頑張った(Give)。だからそのリターンとして、未来では立派な大人になってくれ(Take)。そう願ったとしても、答え合わせは「10年先、20年先」である。教師は正当なリターン(Take)があるかどうかわからない。リターンが不明では、それは交換ではなく“贈与”だ。「あげっぱなし」だ。ここに教師の“しんどさ”がある。

残酷な物語

 前置きが長くなった。教育は投資的にしか働かず、教師は贈与的にしか働けない。冷淡に聞こえるかもしれないが、これが原理だ。これは仕方がない。
 そう。これ「は」仕方がない、のだ。しかし、これ「以外の問題」は「仕方がない」としてはならない。これ「以外の問題」とは? 意外な問題だ。意外とは「意識の外」と書く。誰からも顧みられることがない、ということだ。

 人知れず疲弊し、心を擦り減らす。日の当たらない学校社会の片隅で朽ち果てる。
 そういった教師が世の中にはいる。原理からはずれた問題で……。
 教師の多くは原理が孕む“しんどさ”を覚悟している。意識的にも無意識的にも。しかし、それ以外の問題は想定外だ。
「こんなはずじゃなかった……。」平穏からこぼれ落ちる。そんな教師がいる。そして誰からも顧みられることがない……。
 光の当たらない物語。光などない物語。光を当てたところで輝かない物語。
 顧みる。帰り見る。一端、あの日に帰って、見てみる。

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