見出し画像

Guitar1102

今回の「その日の歌」は島倉千代子さんの「愛のさざなみ」。この曲もラジオで流れたのを聞いて音に惹かれ検索特定したスクリーンショット集から。一人だと雰囲気が出せないけどコーラスの部分が好きだった。

島倉千代子さんといえば演歌のイメージだったんだけど、この曲は演歌ではないよね?歌謡曲??考えてみたらいずれも定義がよくわからない。しかしわからないまま書くと、おそらく私は演歌はまず聞かない、一方歌謡曲の中には気になるものもある、そんな感じな気がする。
私の理解している限りでは(間違っている可能性もあるけど)、共通しているのはいずれも歌い手は基本的に自ら詩や曲を書いたり楽器を演奏したりすることはなくステージ上の歌のパフォーマンスに専念するということかな。「先生」と呼ばれる作詞家作曲家に作品を提供してもらった曲(サウンドや世界観が演歌とそれ以外はちょっと違う)を、プロの楽器演奏者やコーラス隊等と共に歌って華やかなショーを見せるというイメージがある。だから昭和歌謡の有名曲は作品としてめちゃくちゃ質が高いもの、歌い手もバックバンドも技術が高いものが多い。
あと、生演奏基本であれだけ大所帯のバンドやコーラス隊なんかを当たり前に動員していたっていうのはやっぱりものすごくお金をかけていたんだな、と。おそらく戦後は娯楽が少なかったから皆で夢を見るため必死に、そして経済成長後は潤沢にお金があるから今とは比べ物にならないくらいに(コーラス隊やバックバンドの方が充分に収入が得られていたのかはわからないけど)。
私はもう長いことテレビの無い生活をしているので実際確認できないけど今はもう歌番組もバックで生演奏なんて稀なんじゃないだろうか。そもそも私が小学生の頃から歌番組は生歌でなく口パクがほとんどだった。曲もテレビ版に短くカットされたものだったし。今はバンドなど自分で演奏する形態以外はカラオケ状態が多いのでは?元々打ち込み系の曲も増えたし。

考えてみれば、演歌にしろ歌謡曲のアイドルにしろ、かつての女性歌手は多くは男性の「先生に提供していただいた曲」を歌っていた。(歌い手は主体ではなく客体だったというか)その世界は彼女達のリアルや声ではなく、「先生」である男性が女性に歌わせたいファンタジーであり浪漫であり物語であった。そして女性歌手はそれらを全身全霊で受け止め理解咀嚼しようとした(そうすることが求められた)上で表出させた。それを聴衆は聴き酔った。歌い手が託され体現した様々な女性像、恋愛模様、人生観等を世間が吸収する。価値観の共有、再生産が行われる。
制作側は「プロの作家」なわけだから、なかにし礼さん等、非常に質の高い示唆に富んだ作品を多く書いた方もいらっしゃる。しかし、このような形の価値感の伝播や再生産には注意しなければならない点もある。

私はそもそも量産型アイドル集団?があまり得意ではないのだけれども、中でも「セーラー服」の歌が鳥肌物。男性があれを若い女の子の群れに歌わせたいと思うこと、そしてそれを女の子達が喜んで?歌っていたこと、さらにそれを見て世間が盛り上がっていたこと、どれも非常に気持ちが悪い。何よりグループ名も品がよろしくない。
あのアイドル達は本当に心から喜んでノリノリであれを歌っていたの?それが良いこと、かわいい(というか都合のいい)女の子のあるべき姿として求められたからそうしていた、そうせざるを得なかったのでは?
そんな風に思ってしまうから私はかわいげがないと言われるんだろうけど、そうだとしても私はあんな風に自分を貶めた姿を晒したくはない。都合のいい女や「人材」として重宝されるより選ばれないほうがいい。

神様は、いる人にはいるんだろうけど、私にはいなかった。

宗教の対立もそれ以外の対立も、たとえ違いがあったとしても違いを尊重して平和に共生できればいいのにね。

May peace be with you and the world.


またミョウガが蕾をつけていた。近くにあったじゃがいもとキクイモも掘り起こしてしまったんだけどまだちょっと早かったな。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?