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#7 俗、透谷の生きられた部屋

北村透谷はなぜ死ななければならなかったのか。

というよりも、どうしたら生きていられたのか。と問う方がよかったのかもしれない。昨日の記事では、この閉じこもりの生活のなかで自らの「実体」のなさを痛感していくことについて話した。それは、言いかえれば、この世界に素手で触っている感触があるかないかということだ。さらに言えば、この世界における自らの「価値」が感じられなくなっていくということでもある。

今朝方、毎朝のようにZOOMの会議はしているが、午前中だけで4本の会議があった。それこそ、ヘトヘトになるようではあるが、そのなかで、やはり「もう我々は必要ないのでは?」という話も出てきた。少なからず、この「無力感」のようなものは、この生活を通して多くの人が感じはじめているのだろう。

そこで、昨日は、北村透谷という文士が、この世界とはちがった「虚」の世界に生きようとしたが、この世界(「実」世界)の重さゆえに、結局は敗北して死んでしまったという話になり、ぼくたちは、このまま敗北するしかないのか? と問うことで終わった。

こんな漠然とした問いに、すぐ答えなどはでるはずがないのだが、昨夜、本を読んでいたら、あれ、と思うことがあった。つまり、ヒントが与えられたのである。

「これまで詩人は自己を俗な市民から分つ所に誇を持って来たが、天上の星を仰ぎ見ることに依って、足が大地を離れてしまってはならないのである。ひとりの俗な市民として、僕が考察をはじめた所以である。」
 黒田三郎の「詩人と権力」(一九五一年版『荒地詩集』所載)を読み返していて、こういう表現にぶつかった。「俗な市民」という言葉が、今、あらためて僕の眼を射る。「俗」という言葉の意味していたものが、戦後詩とよばれるわれわれの詩にとって、いかに重大な役割を果たしていたかを、今僕は、眼を洗われるような気持で考えている。
(大岡信『蕩児の家系 日本現代詩の歩み』思潮社 2004年7月)

この大岡信の『蕩児の家系』という本は、近代詩から現代詩に至る流れが大岡信の視点で論じられているものだ。もう十年も前になるだろうか、当時、熟読したもので、ボロボロになりつつあるが、それゆえに、定期的にパラパラと読み直すことがあった。しかし、当時は近代詩への関心の方が強かったから、あまり戦後詩の方は読むことは少なかった。最近、『戦後名詩選』を読んでいることから、「戦後詩概観」を読んでおこうと思って、昨夜寝るまえに取り出したのだった。

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すると、前にあげたようなところがあった。黒田三郎の文章を引いて、「俗な市民」という言葉に大岡信は反応している。『戦後名詩選』でも、再び読んで感動した黒田三郎であったから、ぼくもいつもより反応してしまう。そして、この「俗」という言葉について、さらに鮎川信夫や田村隆一らをあげながら思考を深めていくのだが、そのなかでこのような記述がある。

だが、イリュージョンと幻滅とを経過したのちに全容を現わしてきた俗な市民生活は、もはや単純な市民の生活そのままではあり得ない。それは十分に失望し、十分に自己を蔑視し、十分に世界の退屈さを知っている「俗」である。それはまた、十分に批評的である「俗」なのだ。

ここでハッと思った。「失望」「蔑視」といった言葉に、昨日ぼんやり考えていた北村透谷の姿がよぎった。そういえば彼も「絶望」していたのだった。でも、彼は「俗」にはならなかった。

彼は、キリスト教に受洗して、精神的な愛とは何かを考えた。「恋愛」とは何かを考えた。そして、「虚」の世界に身を捧げようとした。彼は、「俗」を「卑俗」のように捉えていたのであろう。といっても、彼の時代にはまだ「市民社会」的な「俗」は誕生していなかったのだから仕方のないことだ。

しかし、黒田三郎が言うように「ひとりの俗な市民」としての自覚さえあれば、彼は死ぬことなどなかったかもしれない。そんなことを思った。『蕩児の家系』でも引かれているし、『戦後名詩選』でも読んだ黒田三郎の「死のなかに」という詩にはこうある。

 死のなかに

(前略)

一年はどのようにたったであろうか
そして
二年
ひとりは
昔の仲間を欺いて金をもうけたあげく
酔っぱらって
運河に落ちて
死んだ
ひとりは
乏しいサラリーで妻子を養いながら
五年前の他愛もない傷がもとで
死にかかっている
ひとりは

その
ひとりである僕は
東京の町に生きていて
電車のつり皮にぶら下がっている
すべてのつり皮に
僕の知らない男や女がぶら下がっている
僕のお袋である元大佐夫人は
故郷で
栄養失調で死にかかっていて
死をなだめすかすためには
僕の二九二〇円では
どうにも足りぬのである
死 死 死
死は金のかかる出来事である
僕の知らない男や女がつり皮にぶら下がっているなかで
僕もつり皮にぶら下り
魚の骨の散っている床や
あしびの花の匂いのする夜を思い出すのである
そして
さらに不機嫌になってつり皮にぶら下がっているのを
だれも知りはしないのである

長いので前をカットしたが、そこには、戦争が終わって、「死」がそこらじゅうにあるが、それによって「ペテン師」も「酔漢」も「銀行家」も「偽善者」も、だれもがお互いを哀れんでいる生活が描かれる。そして、一年、二年が経ち、「僕」は「東京の町」に生きて、「電車のつり皮」にぶらさがっている。まさに、「俗」な「市民」の「ひとり」としてそこに生きている。

萩原朔太郎もまた、「群集」のなかを歩いていく詩「群集の中を求めて歩く」という詩を書いた。「私はいつも都会をもとめる/都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる/群集はおほきな感情をもつた波のやうなものだ」と言って「詩人」は「群集」のなかにいようとするが、あくまでそれは「詩人」としてそこにいる。黒田三郎のように、「俗な市民」の「ひとり」としてそこにいるのではない。

大岡信は、こうした黒田三郎の「俗」を論じることで、新たな「詩的生活」の道を提示したと言う。戦後に獲得された「俗」。北村透谷を死から救いだすには、まだまだ時間が必要だったみたいだ。

それにしても、「群集」だとか、「つり皮」にぶら下がった男や女という人々は、いまや避けられるものになったいまの時代を考えると、途端に不思議なものに思えてくる。きっと、ぼくたちは「つり皮」にぶら下がることを避けるようになっていくし、「群集」を作ることにも抵抗感や嫌悪感を持つようになっていくのだろう(もしかしたらそうならないかもしれない)。

なにか、すごいものを失ったのではないのか。

そんなことを、戦後詩を読んでいて思ったりもする。

よく政治家がコロナ騒動を「戦争」にたとえることがあるが、もしその「戦争」が明けることがあるならば、再びぼくたちが書くことになるのは「戦後詩」なのだろうか。

また、北村透谷が生きていられた世界のことを考えてみたい。


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