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#3 立ち、歩き、脚で書く部屋

一日中、ソファに座っている。

座っていると、テーブルのうえのパソコンや、iPadだとか、向こうにあるテレビや棚、壁にかかった絵など、延々と見つめることになる。だんだんと飽きてくるばかりか、座っているせいで、背中も肩も、腰も、脚も悲鳴をあげはじめる。

しかし、なんだか動けない。動こうと思って、動く先は、ベッドで、横になって、そのままさらに動けなくなる。

そんなことを数日やっていると、このままではフィジカルもメンタルもダメになると思った。まずは仕事や趣味の読書や、書きものをするにも、座っているのが苦痛になったのだから、どうすることもできない。背中が痛くて、すぐに横になりたくなる。

そこで、姿勢をよくしようとつとめていると思いつく。

立ってやればいいんじゃないか。

すぐさま、部屋の隅を片付けて、使っていない部屋干し用のゲージの上に、これまた壊れて使えなくなった本棚の棚を一枚乗っけて、簡易的ではあるが、スタンディングデスクをこしらえた。

高さはだいたい100センチほどになった。作業スペースはさほど広くはないが、これなら背中も丸くならずに、いい姿勢のままパソコンの作業もできる。さらに、発見したことは、となりの窓をあけはなつと、青々と繁った金木犀が生えているのが見える。ふう、と息をつくときに、見るとなんだか日に照らされた緑の葉が元気をくれる。

一日中部屋に閉じこもるようになって、仕事も趣味も、同じ空間でするようになって、プライベートのなかにパブリックが侵入してきたようで、居心地が悪かった。しかし、スタンディングデスクを別に設置することで、それが、狭い空間ではあるにしろ、公私が分離したことによって気分も少し変わったようだ。

そればかりではない。立っていると、座ったり寝転んだりすることに警戒するようになる。あ、いま座ったらダメだとか、そういう水を恐がる狂犬病の犬のようになる。椅子こわい、ベッドこわい。

そうすると、一日中立っていることになる。立っているのもそう楽ではないので、何かしていようということになり、本を読んだり、勉強したり、文章を書いたりするようになる。なるほど、人は、座るようにはできていないのかもしれない。

職場では、いつもすし詰めになったデスクに座って、10分に一度どころではなく話しかけられて、仕事が中断しては、背中の痛み、脚のだるさを気にしながら、再開するという、言ってみれば苦行のようなことを続けてきた。そうして、人は、座ることが基本になるようになっていった。

ところが、在宅勤務になって、身体のふるまいが変わる。立ちはじめる。「立つ」は「行動」のモードだ。本を読みながら、ふらふら部屋のなかを歩きまわる。立ったままなので、あ、これはあのときの……と、本棚にそのまま向かって、別の資料と照らし合わせて、そうじゃないか!という発見をする。

それから、このままもっと、と思って、散歩に出ることもある。近頃は、よく隣駅くらいまで、四方八方に歩いていく。わざと迷いこむようにして、歩きたいところまで歩いていく。それがまた気持ちがいい。

帰ってきてからも、立っていることには変わらないので、そのままスタンディングデスクに行って、作業を再開する。座ると、「ふぅ……」となってしまう。それを、おそれる。

これは、いまにはじまったことではなく、古今東西、この「歩く」ということと、仕事の捗りに相関関係がないわけではないらしい。また、ぼくがよく引用する佐々木中さんの名文を読んでほしい。

 そう思うのは勝手だが文弱の徒には文章は書けない、と言ったのは吉田健一だったか。プラトンが三二本の鈴懸の木々の間を歩きつつ教えを説いたという例は古くにすぎるとしても、ハイデガーが思索の歩みを連れて散策する森の道もかなりのものだったと聞くし、ゲーテやヘーゲルが逍遥したハイデルベルクの哲学者の道も小半時で抜ける距離だが急坂で気楽に踏み入った観光客が道半ばで後どれくらいまで続くのかと不安げに洩らしはじめる程のものであるらしい。かの高名なカントの散歩で驚くべきは時間厳守ではなく日に三時間を掛けるものだったという点だ。ヘルダーリンは健脚自慢の手紙を書いていて、日に八時間は歩けると豪語していた。ハレ、デッサウ、ライプツィヒ、リュッツェンを経てイェーナに七日でもどるという旅程が一例となるだろうが、多少無謀な強行軍と見える徒歩旅行を幾度となく行なっている。ベケットも日に二〇マイルというから三二キロは苦もなく歩くことが出来、その途方もない心身の耐久力が危うい諜報も含むレジスタンス運動で生かされたのだった。伝記に曰く「頭上の木々を眺めながら、歯を食いしばり、足を引きずって歩き続けた」。その作品にも同様の描写があることは周知の通りだ。ベケットの執拗さ、粘り強さ。それは既に彼に文学の感嘆すべき本質の一つですらある。親友ブロートによればカフカも休暇には「日に七、八時間の行軍」を楽しみ「口にいえないくらいすばらしい」と燥いでいた。胃が悪く食欲を出すためと言い訳をしているが安吾も一日数時間を散歩に割くが習いだったと『クラクラ日記』に見える。昔中国では文章は肚で書くものとされ河童に腸を洗って貰ったら明文が書けたという怪談まであるが、しかし文章は脚で書くものではないのか。
(佐々木中「足ふみ留めて」『文学界』2010年3月)

長い距離と長い時間、歩けば歩くほど、遠いところまで行けるように、文章も書いていけるものなのかもしれない。立ち止まった瞬間に、思考も、手も、止まってしまう。「文章は脚で書くものではないのか」とは、すごい発見だと思う。

立っていよう。

歩いていよう。

きっと、立って書いたものには、言葉に、立っている「しぐさ」があらわれるはずだ。なにかが変わっていく。

少しずつ、少しずつ。

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