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[小説]ねぇワンハンドレッド

古くなったパッキンの蛇口の先から、何時間もかけてゆっくりと水がにじむ。それがシャボン玉のように少しずつ膨らみ一定の重みになると、雫となりシンクに落ちる。たった一粒の水が重い音を響かせる。
 台所の床に敷いた冷たい布団の中で、ノエコはひとりその音で目を覚ます。そして、鳴る前の目覚まし時計を止める。毎朝この調子だから、時計が本来どんな音を鳴らすのか忘れてしまった。
 しばらく布団の中で、直前まで見た夢を思い出そうとするが、頭の中にはシンクに落ちる水滴の音だけが残っていた。まるで自分の脳内にステンレス製のシンクがはめ込まれているようだった。
欠伸をしながらゆっくり起き上がると、調味料置き場に入れてある餌の入った袋を手にして顔も洗わずにベランダへ向かう。
 一週間前から世話をしているメダカの様子を観察するためだ。それが何よりも楽しみな時間になっていた。
 でも、その日『エンピツ』は水面に浮かんでいた。
 駅前のアーケード商店街にある縦に細長い金魚屋さん、屋内プールのような生温かいにおいに満たされた水槽だらけの店で一匹二十円で売られていた。二百円持っていたノエコは残りのお金で餌も買った。生き物より餌の値段が高いって不思議だな。ノエコはそう思いながら、団地の十階にある部屋のベランダに置いた発泡スチロールの容器で飼育を始めた。そのメダカにノエコはエンピツという名前を与えた。
 筆箱に入れてある使い古された短い鉛筆に色も形もそっくりだった、だからエンピツ。
 理由はそれだけ。
『いいかいお嬢ちゃん、餌は与えすぎないようにするんだよ』
 そう店のおじさんに言われた通り、ノエコは登校前の朝と帰宅後の夕方に餌を少な目に与えていた。人差し指と親指で砂場の砂のような色をした粉末状の餌を少しだけつまみ、エンピツの頭上あたりにその粉を雪のように降らしていた。
 狭い空間の中で器用にUターンしながら餌を吸い取り、エンピツはすぐさまそれを平ら
げた。物足りなさそうに餌のあった場所で泳ぎまわっていたが、ノエコはそれ以上あげることを我慢した。
 言われた通り水の汚れに注意し、言われた通り直射日光が当たり過ぎないベランダの床に置いた。
 全て言われた通りにしただけだ。
『あんたは口ごたえせずに、言われた通りにすればいいの』
 母親もそれを口癖にしていた。
 月に二度くらいの頻度で、土曜日の夜に名前も知らない男が家に来ることがあった。髪は脂っぽく、着ている黒い薄手の革コートは煙草臭くて、肩にはいつもフケが積もっている。そんな男が来る日だけ、母親は化粧をした。
 男は必ずフライドチキンを買ってきた。だからノエコは男のことを勝手に『鶏男』と心の中で呼んでいた。スパイスがたっぷりかかった鶏肉は脂っこかったが、ノエコにとってはご馳走だった。軟骨までごりごりと音を立てて食べた。食べ終えると母親は必ず『じゃあ二時間表で遊んできな』と言う。鶏男は黙ってノエコに五百円玉を握らせる。
 街灯の灯る時間、寒さに震えながら団地内の広場で百二十分もの時間を過ごすのは苦痛だった。歯の裏についたスパイスを舌で器用に舐めとったり、ひたすらぐるぐると滑り台の周りを歩き続けたり、柵に腰かけて白熱灯に集う虫を見上げたりした。
 ノエコは鶏男が嫌いだった。たとえフライドチキンを土産にしようが、五百円を貰おうが嫌悪感の方が遥かに強かった。いつも煙草や小便や汗を煮詰めたような酸っぱい繁華街のにおいを部屋に運び込んでくる。数日はそれが沈殿するように籠る。あの革のコートのせいだ。ノエコはそう感じていた。革が街に染み込んだ嫌なにおいを引き連れてくる。
 それでも黙って広場で二時間潰せば、母親の機嫌は良かった。部屋に帰る時には鶏男の姿はすでになく、必ず台所のシンクの中には煙草が数本無造作に捨てられていて、その後片付けをノエコがしていた。どんなに注意深くスーパーのビニール袋に吸い殻を捨てても必ず指に煙草のにおいがついた。それがとても不快だった。
でもその不満すら母親には言えなかった。少しでも反抗的な態度を見せると母親の態度は急変する。頬を張られると、心臓の鼓動が早くなったり遅くなったりして息が苦しくなる。
 それが嫌だからノエコは言われた通りに行動する。そうすれば、全てうまくいくと信じていた。

 今回も言われた通りの手順で飼育していただけなのに、エンピツは左側の胸ビレをノエコの方に向けて泳ぐのをやめてしまっていた。口も動かさず開いたままだ。
 どうしちゃったのかな――ノエコは棒立ちのまま餌袋を右手に持ち、しばらくエンピツを見下ろしていた。
 きっと、この子はしばらくこうして浮かんでいたいだけだ。またすぐ泳ぎ出すと信じていた。
 ノエコもプールで同じように何も考えず仰向けで浮かんでいる時間が好きだった。水に浮かぼうとする意思と沈もうとする肉体のちょうど狭間で小さな波が寄せては返し、視界には広い空が一面に広がる。その浮遊感は自分自身と空との距離をゼロにしてくれる。皮膚も骨も脳も全てどろどろに溶けて空に吸い込まれてしまうような感覚だった。
 きっとエンピツもその気持ちを味わっているんだ。
 ノエコはしゃがみ込み上体を曲げて、エンピツの視線と同じ方向を見上げてみた。でも、そこには張り出した上の階のベランダが見えるだけだった。
 空なんてなかった。
 エンピツの場所から見えたのは、数日間干されたままのノエコのシャツと母親の下着と吊られた室外機だけだ。劣化した洗濯ばさみ特有の古いプラスチック臭がベランダ内に漂っている。
 ノエコは小さくため息をついた。
「空が見えなくてごめんなさい」

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