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服を脱いで洗濯をしたから


SNSに股間を晒そうとした事がある。
違う。趣味で、ではない。

隠す事より、全て見てもらう方が、楽だと思ったからだ。僕があまりにも真剣な顔付きで相談するものだから、嫁は『流石にキモい』と言っていた。


エッセイを書いていると『自分をどこまで曝け出せるか』という ”ハイ” の状態になる事がある。奥底にいる自分を曝け出すと、生活をしていく上で『不必要になった自分』が、生き帰るような気がしてくる。それが気持ちよくて『もっともっと』と、自分の『奥の奥』へ進もうとするのだ。こうやって、隅に追いやったはずの自分が触られて、気持ちよくなってしまい、” ハイ” になって行くのである。そう、変態なのである。

奥底の部分を執筆している時、自分の心とブルーライトだけの世界になる。長い時間、その世界に居続けると、それはそれは、頭がおかしくなって来る。だから、股間を晒そうとした、という訳だ。納得頂けただろうか?


この、自分の『奥底』に触れていく作業が、まあキツい。

過去に、嫌で嫌で仕方ないから片付けた『本心』なので、触れると、汚れてるわ、痛いわ、臭いわ。長い時間をかけても消化なかった物を、この世に引き摺り出して来る為『ゲロ』のような形状をしている。

いわばエッセイとは、『ゲロを吐く作業』なのかもしれない。これは今思いついた。




奥底に片付けた自分というのは、自分の『核』のような部分の事である。

この『核』が非常に分かりにくい。自分の意識の奥底に潜り込み、過去に片づけた自分を探していると、『核』の方面から声が聞こえてくる。しかし、本当に『核』から出てる声なのかが疑わしい。

なぜ分かりにくいのかと言うと、『核』には『立場』や『覚悟』が覆い被さっているからである。こいつらが『核』を隠しているから、声が籠ってしまい、本当の声が聞こえにくいのである。


例えば『友人』という立場だ。
A君の友人である以上、彼に『嫌われたくない』と思ってしまう。
この『嫌われたくない』と思う自分が、自分を演出し、理想である『嫌われない為の姿』という『像』を作り出してしまう。

他には『社会人』という立場だ。
社会に属する人、という立場があるから、コミュニティから『はみ出さない』ように自分を演出し『像』を作り出す。

そして『親』という立場が、『愛』という名の元、自分の『核』より、他人を優先させる。

『人間』という立場が、環境や仕組みを作り、生まれたままの姿で居る事を許さなかったりする。

奥底にある『核』は、それらの『立場』を煙たがっているのに気付かず、環境の総意を形どるように、己の形を変えて行き、本当の『核』の声が聞こえ無いよう、蓋をする。



『覚悟』もそうだ。
『過去』という覚悟が、今までに受けた『傷』を避けるように、自分とは別の『像』を作り出す。
『未来』という覚悟が、『こう生きねば』と無理強いし、進むべき道を操作し、間違えたりする。

それらの覚悟も言わば『核』とも言えるのだが、本当の『核』は、自分でも知らない程、もっともっと奥底に潜り込んでいたりするのだ。



梅干しの種の中にある『仁(じん)』のようなもの、と想像するとわかりやすい。

奥の奥に隠れた自分に触れた、と思っていたら、その更に奥に自分がいる。

『立場』や『覚悟』を纏った自分というは、梅干しの『種』のように硬い。でも、その中にいる自分は『仁』のように柔らかいモノである。

本来の自分である『仁』に触れる為には、『種』という『立場や覚悟』を割る必要がある。


僕は、この『仁』に触れる為に『種』の部分を、めちゃくちゃに攻撃してみた。これがまあ、硬い硬い。痛い。しんどい。ぶっ叩いてみたり、削ってみたりしたが、なかなか姿を現さない。

この硬い部分が、生まれてから培って来た『性格』であり『業』であり『信念』なんだと思う。だから、そう簡単に壊れても困る。

しかし、どうにか『仁』に触れたい。気持ちよくしてあげたい。



考えを変えてみた。『種』を割ることが出来ないのならば、誰にも見られないように『脱ぐ』事なら、出来るんじゃないのか。

やってみると、これが意外と簡単に脱げるのだ。あんなに固かった『種』の部分は、誰もいない家の中でなら、脱いでも恥ずかしくもない。まだ、ちゃんと見るのが怖いのなら、電気を消して、月明かりだけで見れば良い。

しかも、また『着る』事が出来るのだ。

こうして僕は、自分の『仁』に触れる事が出来るようになった。

『服を脱ぐ』という『選択』をしたから、自分の『本当の声』を聞き取れるようになった。


この『選択』は、長く着飾った服の『洗濯』だったのかもしれない。




『自分はあんな人間にはならない』
『子供たちの前でそんな事言えない』
『あの人のように大金を稼ぐ為に成長するんだ』
『嫌われないように自分は変わるんだ』


僕たちはどうして『服』を着てしまうのだろうか。
僕たちはどうして『服』で着飾った自分を『これが本当の自分』であると勘違いしてしまうのだろうか。
僕たちはどうして、理想の形じゃない自分を『服』で誤魔化し、『本当の自分』を奥に仕舞い込んでしまうのだろうか。

『なりたい自分』の前に『生まれたままの姿』の自分が居るはずなのに。

コミュニティの形に合わせるように『服』で自分の姿を隠してしまう。環境の総意に『迎合』しているとも気づかないうちに。

だから、多くの人が『世間一般』に迎合する為に『服』を着た自分と、『世間一般』とズレた自分の本当の姿の『差』に苦しんでしまう。

そんな汚い世界で、着て来た『服』なのだ。そりゃ汚れている。



何も『裸で生きるべき』と言っている訳ではない。

もちろん『立場』を考慮する事は、生きていくうえで欠かせないものだ。

『覚悟』もそうだ。過去の自分を慰める為に必要だし、未来の自分を色付かせる為に必要な物である。

『立場や覚悟』は『仁』を守る為に、上に成り立つ。だからこそ、僕たちを奮い立たせ、僕たちを導いてくれる。

しかし、それに苦しめられている人が多いという話だ。



僕は『立場』は上着で『覚悟』が下着、のようなモノと捉えている。

『立場』を厚着し過ぎてしまうと、自分の『仁』が息苦しくなる。
『覚悟』を着ると、薄く『仁』の形に纏わり付く為、境目を見い失う。

『立場』はスーツであり、ダウンであり、無菌の防護服かもしれない。
『覚悟』はパンツであり、ストッキングであり、はたまたタトゥーかもしれない。

それらは時に、ネックレスやピアスかもしれないし、靴かもしれない。
だから、アレルギー反応や靴擦れを生んでしまったりする。

だからこそ必要なのは、『服』を脱げるようにする事だ。
そして一度『洗濯』する事だ。

恥ずかしいなら、誰にも見られない場所で脱げば良い。
寒いなら、乾いた後、また着ればいい。


自分の『仁』がわからない人は、是非やってみて欲しい。
その服を、手に入れたのは、いつなのかを思い出しながら脱ぐ。
なぜ着る必要があったのかを思い出して脱ぐ。
誰かに貰ったのか、誰に借りたのか、そんな服を返してみても良い。

『服を脱ぐ』事で、自分の中の風通しは良くなるし、自分の『仁』は何が『好き』で、何が『嫌い』で、なにが『楽しい』のか、不思議と分かるようになってくる。

その上で『洗濯』して汚れが落ちた服をもう一度、着ればいい。




自分が『死』に直面した時ですら『これは誰かが生きたかった命だから生きなければ』と言う人がいる。

それはそうだが、同時に、決してそうではない。
命を全うする責任と、醜くても生きたいとういう願いを、混ぜてはいけない。


その言葉は『立場』が言わせて無いか?
その言葉は『覚悟』が言わせて無いか?



自分の中で生きる自分は、いつも『美しく』なきゃいけないのか?
誰かを蹴落としてでも『生きたい』と願う事は、本当に醜い事なのか?
自分だけでも『生きていたい』と思うことは卑怯な事なのか?

死が目の前にある状況で、ただ『生きたい』と思うことは、ダメなことなのか?

存在する事は誰にでも許された『権利』だ。



『覚悟』や『立場』は人を勘違いさせる。

『立場や覚悟』は、時に『誹謗中傷』という形で、人を殺す。
『立場や覚悟』は、時に『戦争』という形で、人を殺す。

でも、引き起こした人も『立場や覚悟』という『服』を脱げば、ただの『人』だ。全裸で鏡の前に立ち『よし、人を殺そう』とは思わないはずだ。



結局のところ『あなたは醜くないよ』と言って欲しいだけだ。
『洒落てるね』と言って欲しいだけだ。

自分の中にある『醜さ』は、今生きている環境の中で『醜い』とされているだけで、意識の底からくる本当の自分が、『醜い』わけがない。『立場や覚悟』で守られて来たのだから、『醜い』わけがない。


だから、今いる世界で『醜さ』を覚えた自分は、自分の中で大切にしてほしい。総意の『美しさ』に死ななければならないくらいなら、1人で『醜く』生きればいい。

自分の家に帰った時くらい、服を脱げば良い。




もう一度言う。だから『股間』を晒そうと思った、という話である。

納得頂けただろうか?

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