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カルトと伝統宗教の違いって、何だろう?

頼んでもいないカルト系教団(※)発行の新聞が新聞受けに入っていました。その新聞は、見出しから本文まで、同系他派や同系伝統仏教教団への批判や否定の言葉であふれていました。
※ここでは「伝統仏教系ではない」という意味で使っています。


正統の教えは、見解の異なる相手を否定せよとはいわない!

【宗教】とは、そもそも何のためにあるのでしょう?
人がよりよく生きるために、宗(むね)とする教えです。

これだけ地上に人があふれかえり、異文化の国境がぶつかりあっているなかで、お互いを否定して殺しあうことを宗とする教えが、正当な教えであろうはずがないですよね。

キリスト教にせよイスラーム教にせよ仏教にせよ、教祖の教えに立ち還るならば、考えが敵対している相手を否定する教えには、なっていません。
聖書では、

誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい

マタイによる福音書5.39

という言葉がよく知られています。

お釈迦さまも、自らを罵倒する相手に対して悪口をプレゼントになぞらえて説明し、

悪口は 受け取らないと 相手の元に戻る

hasunoha お坊さん33秒法話

と語っています。
つまり、見解の異なる相手に出くわしたら攻撃しようとするなと教えています。

末端の在家信徒の間では宗教が異なれば小競り合いもあるかもしれませんが、ローマ法王やダライ・ラマ法王といった伝統宗教のトップクラスになれば、他宗教の人とも対等に宗教間対話をなさいます。

他の教えを否定すると、全知全能の神は破壊神的になっちゃう⁉

「神のみを信ぜよ」と、教えられたとして。
他宗の神と自分たちの信じる神とが〝違うものである〟と認識するのは、短絡的すぎます。

信ずる神が「神はひとり」とおっしゃっているのですから、他国や他民族の人が言う神は、言語や文化の違いから、姿や名前が変わっただけで、あなた自身が信ずる神の〝別のお姿〟であるととらえることもできるはず。

全知全能の神がおひとりであり、他宗の神はまがいものであるならば、まがいものの神や、まがいものの神を信じてしまう人をつくりだしているのもまた、あなたの崇拝する全知全能の神ということになってしまいます。

あなたの崇拝する全知全能の神がもし、「別の神を崇める民族と衝突したら武器をもって駆逐すべし」と教えているのだとすると、その神さまは戦争を推奨し殺しを推奨し、いまの時代ならばゆくゆく核戦争まで起こさせて人類を滅亡させるばかりか野山の草木まで朽ちさせてしまう破壊神だった、というオチになります。

というわけで、長い時間をかけ教えが広い地域へひろまっている伝統宗教は、異なる教えを信じる人を否定しません。
ここが、俗にカルトと呼ばれ危険視される宗教と、長く続いてきた伝統宗教との境目ではないかと、私は考えています。

一般社会の価値観を完全否定し、〝われわれだけが救われる〟と主張して安堵を与えるのがカルト

一般社会で辛い目に遭遇した人や、単身赴任で孤独になっている人などは、誰かに頼りたいという気持ちが強くなっています。

そうした人々に手をさしのべてほめあげ、救われると言い、仲間がいると主張し、囲い込むのはたやすいことです。

社会の常識は間違っていると説いて現実をイリュージョン化し、金品を巻き上げて集会や共同生活で仲間のいる安堵感を与えればよいのです。

オウム真理教の事件から四半世紀。
安部元首相が旧統一教会とが密接に関係していたことを理由に、旧統一教会に恨みをもつ人物により射殺されてから一年半。

一連の事件の痛手により、「宗教はアヤシイ」という空気が蔓延しているにもかかわらず、この国ではまだまだ、カルトのみならず自己啓発やさまざまなスピリチュアル系商売が、いまだ現実をイリュージョン化する手法で、多くの人から金品を巻き上げています。

いっぽう、過半の伝統仏教寺院は本質を説くことさえしなくなり、死者供養と墓地管理者を主業として細々とながらえています。

イリュージョンではなく、感謝の祈りを

学校で辛いことがあった。
会社で居づらい立場に置かれている。

そうした現実をイリュージョンとまやかすことをせず、「縁起である」と説くのが、仏教です。

いじめている当人は、家庭で抑圧されているかもしれない。
会社で私をやりこめる上司は、家では発言権がないのかもしれない。
あなたが悪いのではなく、別な理由。
それを示唆するだけで、現実がさほど変わらなくても、救われる人が多くいます。

また神道では、ハラスメントに遭ったとしても、
「お天道さんがなんとかしてくれる」
と手を合わせることで棚上げし、自責の念を解放します。

棚上げするのもイリュージョンじゃないのかって?
違います。

現実を否定し、「われわれの独特の世界観のみが正しい」とするのは、「その他の救われない人々」を生み出す思考です。

手を合わせて祈るのは、日ごろ仕事や育児が忙しい間に見うしなってしまいがちな、自然法則そのものへの感謝であり、敵をつくりません
仏教の縁起論もしかり。いきとしいけるものすべてを尊重し、敵をもゆるし、よりよい縁起がめぐるのを待つ。

不安から私たちを解き放つ。それこそが、宗教ほんらいの役割なのです。

現実をイリュージョンにしてしまい、独特の世界観のなかへ囲い込み、「われわれだけが勝ち組である」と差別化する自己啓発やスピリチュアルのまやかしではなく、たしかな「祈り」をもう一度
食べること、生活することと密着したなかで縁起をみいだし、祈ること。

日本の寺社にはそうしたことを、いまこそ本気で、伝えていただきたいのです。

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