見出し画像

血と理想で作られた時代:フランスおたくのみるフランス革命

フランス革命という激動の火蓋を切って落としたバスティーユ襲撃から今日で235年。

人民の自由や権利の獲得を求め、輝かしく美しい理念のもと起きた革命。今のフランスの礎を築いた革命。『ベルサイユのばら』に出会って以来、フランス革命にどハマりして感化されまくったこともあり、革命はわたしのなかで人類史上もっとも輝かしいと思っているレベルの出来事でもある。

革命は輝かしい一方で血で出来た泥沼でもあるけど、人間ドラマもめちゃくちゃあるし、何より(実態はどうあれ)自由と平等という理想に向かって社会が動いていたという事実がよくて、「18世紀のパリに生まれて革命に参加してシトワイエンヌ(市民)と呼ばれたかった…!というか前世はそうだったと信じたい」と思うくらい最高なので、革命のおたくを増やしたいと思って、革命記念日を契機に革命についてまとめてみることにした。

ちなみに、一般的に革命は、バスティーユ牢獄が襲撃された1789年7月14日からナポレオンがブリュメール18日のクーデターで政権を掌握する1799年11月9日までとされているが、本当に革命が革命らしかったのはロベスピエールが失脚したテルミドール9日のクーデターが起きた1794年7月27日までである。

そのためか、J・ミシュレの名著『フランス革命史』や、革命200周年を記念して作られた映画『La Révolution française』もロベスピエールの失脚と共に終わっている。わたしも同様に、革命はロベスピエールの死と共に終わったと思っている。

それにナポレオンが戦争に強かったのはフランスにとっておそらくいいことだったし功績は認めるけど、心の狭いわたしには彼が皇帝になったことがどうしても許せず、彼のことを話すと罵詈雑言だらけになりそうなので、ここでいう革命とは、1789年7月14日から1794年7月27日までの5年間のこととしたい。


革命はなぜ起き、どのように進行し、いかにして終わったのか。

時代背景


革命の原因はひとつではない。革命前夜、フランスは複数の問題や火種を抱えており、それが相互的に作用し、革命は勃発して進行した、とわたしは考えている。

まず第一に、啓蒙思想家が不満を溜めていたことがある。フランス革命は、ルソーを中心とした啓蒙思想家が説いた理念の元に行われたものであり、革命家の多くも啓蒙主義的思想の持つ若者だった。

歴史家のロバート・ダーントンによると、彼らのような若い啓蒙思想家が革命に向かったのには、当時の社会構造に要因があったという。

啓蒙思想は、最初は既存体制に対するアンチテーゼとして形成された。この時期に活躍したのが、モンテスキュー、 ヴォルテール、ルソ一たちだ。

彼らの功績により啓蒙思想が広がったことで、彼らより二まわりほど若い第二世代は、アカデミー・フランセーズの会員に選ばれたり、文筆業で成功を収めたりするようになった。これにより、反体制的だったはずの啓蒙思想家が、体制側となり保守化するというねじれが起きる。

そして、彼らのように文章で身を立てようとした、さらに若い世代が第三世代の啓蒙思想家だ。しかし、社会のトップ層はすでに第二世代によって埋まっており、彼らの多くは、売れそうなものならなんでも書く業者、ダーントン曰く“ボヘミアン文学者”となる。

自分の才能を正当に評価しない社会や、特権層と化した第二世代に対する不満を持った彼らは、政治や社会に対する過激な批判を書くようになった。

知的階級においてこうした動きが発生するなか、王家の威信も確実に低下していた。王家に決定的な傷をつけたのが、革命が起きる4年前、1785年に起きた『首飾り事件』だ。

これは、ジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人が「王妃に渡すため」と偽って、王妃に取り入りたいと考えていたロアン大司教に高価なダイヤモンドの首飾りを購入させ、それを騙し取ったという詐欺事件である。

もちろん王妃は何も関与しておらずただの被害者なのだが、当時のフランスではこれは王妃の陰謀として受け取られ、すでに悪評の多かった王妃の評判をさらに落とした。さらに、無罪となったロアン大司教を王が左遷したことにも批判が集中し、王家そのものの評判も大きく傷つけた。革命初期を主導したミラボーは、「あの事件は大革命の序曲だった」と述べている。

さらに王家は、財政破綻の危機にも瀕していた。

ちなみにこの財政難は、マリーアントワネットの浪費のせいと言われることもあるが、彼女には責任がないことをマリーを好きな人間のひとりとしてここに明記しておきたい。たとえば、1788年度の王家および特権貴族用の支出は3600万リーブルで、彼女が使ったのはこのうちの何割かにすぎない。一方で同じ年の赤字は1億2600万リーブルだ。(それなのに赤字夫人とか呼ばれて本当に可哀想すぎる誰だよ言い出したのは誹謗中傷マンと変わらないしお前がギロチンにかけられろ)

では原因は何かというと、一番大きいのは戦争だ。いつの時代も戦争はお金がかかる。英国との対外戦争で赤字が膨らんでいるなかで、アメリカ独立戦争への支援したことが、すでに見通しが明るいとは言えない状況だった財政を、危機的状況へと追い込んだ。アメリカの独立戦争を応援したのは社会的にとても意義のあることなのに、それで自分の首が締まっていくのしんどすぎる。

三部会


財政破綻をどうにか回避するべく、国王ルイは税制改革を行おうとする。当時のフランスは、以下の3身分に分かれていた。

第一身分:聖職者
第二身分:貴族
第三身分:平民

そして特権階級である聖職者や貴族には課税されていなかった。その免税特権を廃止し、多くの財産を持つ聖職者や貴族に課税するためにルイは動き始めたのだ。

まず、税負担を認めさせるために、ルイは側近とともに厳選した144名(聖職者14人、平民3人、残りは貴族)から成る名士会を召集する。

ルイはなんとも牧歌的に「自分がメンバーも選んでるし、何より国のために必要だからみんな受け入れてくれるだろう」と思っていたみたいだけど、当たり前にそんなことはなく、貴族たちは反対した。

そりゃそうでしょうよ、わたしが貴族でも絶対に絶対に反対する。税金なんかできれば一円も払いたくないのが普通の人間じゃない?この人の善性を信じる感じと謎の楽観ムーブ、かなりルイっぽい〜〜〜!とは思う一方で、あまりに善良な人間で政治に向いてなさすぎるとも思う。経営者とかにも向いてなさそうだから普通の一般人ならよかったのに。

そうして賛同を得られないままに名士会は解散してしまう。ここで出てくるのが三部会だ。三部会とは、上述の3身分の代表者が集まって王と諸問題を討議するための協議機関だが、王権が強化されたことで1614年を最後に150年以上開かれていなかった。

貴族は、財政問題を三部会を再開させ、自分たちの権限を強化するチャンスと捉え、三部会の開催を主張した。これに身分格差に不満を持っていた平民階級も賛同を示す。

こうした世論を受け、ルイは三部会の開催を決定する。代表を選ぶための選挙を経て、1789年5月5日、三部会の初会合が行われた。

しかし、この三部会もうまくはいかなかった。問題となったのが、その採決方法だ。三部会の議員は3身分合計で約1200名、そのうち半数近くを第三身分が占めていた。

そのため、議員数採決であれば平民の主張が通る可能性が高い。しかし三部会では、身分別に討議を行い、3身分がそれぞれ自ら身分としての結論を出す部会別採決が伝統的に採用されていた。そうすると、2対1で特権階級の主張が通る。この採決方法をどうするかでまず意見が対立し、本来の議題である財政問題にたどり着く前に議論が紛糾した。

こうした中で、自分たちこそが国民の真の代表だという自負を持つ第三身分は、聖職者や貴族にも自分たちに合流するよう持ちかけ始める。また、6月17日には国民議会の成立を宣言。彼らが、憲法制定まで解散しないことを誓ったのが、よく教科書にも図が載っている球戯場の誓いだ。

右から7番目くらいに後の革命主導者ロベスピエールがいる

こうした平民の動きを止めて、身分別に討議してもらうために、ルイ自ら会議に出て忠告するものの、効果はなく、結局国民議会を認めることとなる。

7月9日より、国民議会は憲法制定国民議会となり、憲法制定に向けて動くこととなった。

革命勃発


こうして革命が発生するのに必要な空気感や情勢が作られていったのだが、革命勃発の引き金を引いたのは、財務総監ネッケルの罷免だった。

ネッケルは人気の高い人物であったため、パリの民衆は「ネッケルの罷免だけでは終わらず、国王はこれから国会を解散し、武力行使をするのではないか」と考え、恐怖したという。そんな民衆に対し、のちに議員となり革命家としても活躍するカミーユ・デムーランは下記のめちゃくちゃかっこいい演説をしている。

「市民諸君!一瞬たりとも無駄にしてはならない。私は今、ヴェルサイユから戻ったばかりだが、ネッケルが罷免された。この罷免は、愛国者に対する新たな聖バルテルミーの虐殺を告げる警鐘である。今晩、スイス人部隊とドイツ人部隊の全部隊がシャン-ド-マルスを出て、われわれを殺しにやってくるだろう。われわれには、ただ一つの手段しか残されていない。すなわち、武器を取ることである!」

安達正勝『物語 フランス革命』 p50〜51

かっっっっこよ!!!武器取ります!!!!こんなこと言われたら血が沸きたって仕方ないし、そりゃ革命も起こす。ということで、7月14日、血が沸きたった民衆は、アンヴァリッド(廃兵院)で武器を手にし、国王の軍隊に対抗するためにさらなる武器を手に入れるべく、バスティーユ牢獄を襲撃。戦闘の末、陥落させ、囚人を解放する。

バスティーユはもともと政治犯を収容する牢獄であり、王権を象徴する牢獄だった。実は当時はほとんど収容された罪人はおらず、この時解放されたのも7名で、政治犯はいなかったという。

それでも国王の牢獄を民衆の手で陥落させたという意義は大きく、この出来事が起きた1789年7月14日がフランス革命が始まった日とされる。

ちなみにこの時牢獄の司令官を務めていたローネーは当たり前に民衆に殺され、その民衆が首を槍に突き刺して広場を練り歩いている。フランス革命はものすっっっごく物騒で過激な革命で、個人的にはそこも好きだなと思うのだけど、(まあそもそも革命なんてどこでもそんなものかもしれない)その物騒さが最初からよく発揮されてるなと思う。

ちなみに7月14日の日記に、ルイが「Rien(何もなし)」と書いていたことがよくルイの能天気っぷりを示すエピソードとして使われているけど、その日記は狩りの獲物を記録するための日記であり、しかもルイがバスティーユのことを知ったのは寝た後だったので、別にルイが何も考えてない愚鈍な能天気バカだったからそう書いたのではないことはちゃんと言っておきたい。(でもこういうデマってなかなか消えないので怖いですね)

王がパリへ


男たちがバスティーユを成し遂げた3月後の10月、今度は女たちが行動を起こす。

10月5日、8000人の女性たちが王の住むヴェルサイユへ向かって行進した。この頃、パリではパンが不足しており、冬を前にして危機感を抱いた女性たちが国王になんとかしてもらおうと考えて、ヴェルサイユを目指したのだ。

夕方、女性たちはヴェルサイユに到着し、代表者たちが国王と会見を行った。そこで王がパンをパリに届けることを約束し、この事件はこのまま丸く収まるかに思えたが、そんなことにはならなかった。

女性たちを追って出発していた2万人の国民衛兵と武器を持った1万人の男性が、夜になって到着。彼らの中には、ヴェルサイユで野宿するものも多かった。

そして翌朝、ヴェルサイユの住人も含む群衆が宮殿内に乱入。宮殿守備隊と戦闘になり、双方に死傷者が出る事態となった。駆けつけた国民衛兵隊により群衆は宮殿内から追い出されたが、彼らの興奮は収まらなかった。

宮殿正面の中庭に集まった群衆は、国王がバルコニーに顔を出すと、「国王万歳!」「国王はパリへ!」との声が上がった。王のパリ行きを求める叫び声は止まず、ルイは要求に応えるしかないと判断し、パリ行きを決断する。

これ以後、王家はテュイルリー宮殿に居を移すこととなる。そしてルイやマリーがヴェルサイユに戻ることは二度となく、この日が彼らがヴェルサイユで過ごした最後の日となった。はあ、とてもかなしい。

王の革命への不満と逃亡


王を処刑したという事実を知っていると意外かもしれないが、革命初期、革命のスローガンは「La Nation, la Loi, le Roi(国民、国法、国王)」だった。

ヴェルサイユ行進で女性たちが王を頼ったことからも分かるように、マリーはともかく、王は国民からまだまだ慕われていた。革命家すら王に愛を持っていたし、王の処刑はもちろん共和政を考えている人も、革命初期にはほとんどいなかったはずだ。善良な王と共に、議会が作った憲法のもとで、新しい国を作っていく。そうしたビジョンを持っている人が多かった。

一方で、王にはそんなつもりはまったくなかった。

ルイは自身に絶対的拒否権が付与されなかったことを不満に思っていたし、そもそも、歴代の王がずっと受け継いできた国王の権威を、自分の代で損なうことなど、認められなかった。

また、敬虔なキリスト教徒であったルイは、聖職者が憲法への宣誓を求めた、司教などをローマ教皇からではなく選挙によって任命するといった事柄が定められた聖職者市民憲章に、大きな不満を抱いていた。渋々同意したこの憲章は1791年に正式にローマ教皇から批判もされており、この時点で革命に対する苛立ちはかなりのものだったと思われる。

ルイからしたら、国をよくしようと色々してたのに意図しない方向に転がって、しかもよくわからない人間に自分にあって当然だと思ってた権利縮小されまくって、住みたくもない場所に住まわされて、挙げ句の果てに自分が昔から大事にしてた最推しから嫌われたみたいなもんで、それは革命なんてクソだと思うの無理なさすぎる。わたしは革命が好きだけど。

しかも1791年の春、国王一家が復活祭を祝うためにサン゠クルー城に向かおうとしたところ、民衆がこれを妨害するという事件が発生する。

ちょっとした旅行までできなくなってしまったルイはこの時、「国民に自由を与えたというのに、私自身に自由がまったくないというのは驚くべきことである」と言ったそうだ。かわいそう……

こうして革命の息苦しさにいよいよ嫌気が差したルイは、国外への逃亡を考え始める。以前から王妃マリーは実家であるオーストリアへの逃亡を考えていたものの、国王が乗り気ではなく実行されることがなかったのだが、ここにきて逃亡計画が動き始めた。

まず、当時オーストリア領だったベルギーのモンメディまで逃亡し、王党派の軍と合流し、彼らに守られながら近くのトネル城に滞在する。逃亡としては一旦これで成功だが、それだけで終わらず、その後はオーストリア軍の援助を得て、パリへ攻め込んで国会を解散させ、国王としての主導権を取り戻すことが目的だった。

この逃亡作戦を計画し、実行したのがマリーの唯一無二の友人であるフェルセンと、王党派の将軍ブイエだ。彼らの計画は、緻密で限りなく完璧に近かった。

この逃亡事件に関する書籍『王の逃亡 フランス革命を変えた夏』(白水社)を著したティモシー・タケットは、彼らの働きについて、こう書いている。

国王一家のそうした華々しい離れ業すべてが、ブイエ将軍の、そしてとりわけアクセル・フォン・フェルセンの組織力を明確に示している。彼ら二人は協働することによって、史上最も偉大な脱出のひとつに数えられることは確実であった脱出を、成功の一歩手前まで導いたのである。

ティモシー・タケット『王の逃亡 フランス革命を変えた夏』p113

しかし、フェルセンとブイエの努力の甲斐なく、逃亡は失敗する。

どう考えても、ルイとマリーが呑気すぎた。

まず、「国境に出来るだけ早く到着するために小型の馬車で分散しての逃亡してはどうか」フェルセンとブイエの提案を拒み、全員で一緒に旅することにこだわった。さらには、乳母2人も一緒に連れて行くことを希望し、王ルイ、王妃マリー、子ども2人、王妹、乳母、護衛などを含めた11名の大所帯での逃亡となった。彼らは捕まった一方、同じ夜に小型の馬車で脱出した王の弟、プロヴァンス伯は脱出に成功している。

さらに、王や王妃としての威厳を保つための逃亡先での着替えや謎のピクニック用品などを載せたため、どんどん馬車は大きく、目立つものになっていった。

逃亡の旅が始まった後も、顔も隠さず呑気に馬車の外を眺めたり、宿駅で人と喋ったりしていた。これだけは本当に気持ちわからなくて流石に馬鹿なんじゃないかと思う。国外逃亡なのに危機感なさすぎてすごい。

ルイをはじめとする国王一家がこうして呑気に見える逃亡をしていた頃、パリはもちろん大騒ぎになっていた。

ルイが逃亡したことはもちろんだが、ルイは逃亡に際して、革命によってなされた多くの施策を否定し、「それらを承諾したのは革命家たちに強いられて仕方なくやったことだ」と書いた置き手紙を残していた。

これに、パリ市民たちは国王は自分たちを裏切っていたのかと怒った。たしかに、自分たちの味方だと思って信じていた人間に「お前らのことなんかほんとは嫌いだわ!仕方なくやってただけです!!!」とか言われたら怒るし傷つきもするだろう。そんな会社辞める前に不満全部ぶちまける立つ鳥跡を濁しまくる人みたいな手紙残さなきゃよかったのに。

この逃亡事件を、彼らが捕まった地から名をとりヴァレンヌ逃亡事件と呼ぶ。この逃亡以後、それまでパリのほぼすべての家庭や店の壁に貼られていたルイの肖像画はすべて取り外された。逃亡が知れ渡った日には、大量の肖像画がこれみよがしに溝に投げ込まれたそうだ。民衆ブチギレてる。

こうしてパリの民衆が動揺と怒りを感じていた頃、政府では、これまで立憲君主制を念頭において作ってきた組織を、王がいなくとも成立する共和政へと再編成する取り組みが急ピッチで進められていた。

結局、王は見つかってパリに戻ることとなったが、逃亡が発生した時点では王が戻ってくるかどうかなど誰にもわからなかった。議員たちは、王は戻ってこないものと考えて、それでも運営できる体制を作ろうとした。

こうして事実上の共和政が、臨時的なものとはいえ作られたこと、そして王への期待や愛着が失われたことが、フランス共和政への道を開くこととなる。要するに、ルイは自分で自分の首を締めてしまったのである。

ヨーロッパ諸国との戦争


王の逃亡により、事実上の共和政が作られはしたものの、革命が目指してきたのは立憲君主制である。「王は外国の反革命勢力により誘拐されたのだ」という建前で物事は進んでいった。そして王の逃亡から3ヶ月後の1791年9月、フランス史上初の憲法が成立。これにより、フランスは立憲君主国となる。ここで革命が終わっても良さそうなものだけど、まだまだ終わらない。

憲法成立を契機に憲法制定国民議会は解散し、10月には新議会として立法議会が招集される。立法議会の議員は、憲法制定国民議会の取り決めにより、議員を経験したことのない新人だけで構成された。

この議会で問題となったのが、革命の敵への対応だ。当時のヨーロッパは、王政を敷く国ばかりだった。フランスだけで王が権限を縮小され住処を変えさせられとしているだけならまだいいかもしれないが、自国にそんなものがやってきては困るわけである。

1791年8月には、マリーの実家であるオーストリアの皇帝とプロイセン王による警告も出されている。彼らとしては、すぐに武力行使をするつもりはなかったのだが、王の逃亡もあり、反革命への恐怖を感じやすい状態にあったフランスでは甚大な脅威として受け止められた。しかも、王自身が反革命の中心にいるのだからなおさらである。

こうした状況下だったため、立法議会議員の多くは開戦派だったし、1792年3月から内閣を形成していたジロンド派も、開戦を主張した。

ここでジロンド派について少し説明しておきたい。ジロンド派とは、日本でもワインの産地として名が知られているボルドーを県庁所在地とするジロンド県出身の議員を中心として形成された派閥だ。

過激かつ急進的な主張の多いジャコバン派に比べると穏健的ではあるものの、立憲君主派ではなく共和派の一派である。事実、ジロンドの女王と呼ばれ、実質的にジロンド派を率いたマノン゠ロランは、まだ多くの人が共和政など考えてもいなかった。革命初期から共和政を志向していた。

彼らジロンド派は、戦争による経済効果と革命の他国への波及を目指して開戦を主張。国民の大多数も開戦に賛成していた。

ジャコバン派の革命家であり、のちに革命を率いることとなるロベスピエールは開戦に反対していたが、王を含め反対するものはほとんどいなかった。

革命によって、軍を担っていた貴族たちの数多くが亡命し、軍事力が低下していたフランスが、諸外国の整えられた軍に勝てるわけがないと王は考えた。そして革命軍の敗戦により、自分の権威を取り戻せるかもしれないとの思惑から戦争を止めなかったのだ。

かくして、1792年4月フランスはオーストリアに宣戦布告する。こうして始まったフランス革命戦争は、途中で名をナポレオン戦争と変えながら1802年まで続く。

開戦当初は苦しい戦いを強いられていたが、次第に士気の高さとナポレオンの戦才などにより勝利を重ねるようになり、革命政府の承認と領土拡大を成し遂げることとなるが、1794年までの戦争の動向は必要に応じておいおい話していきたい。

共和政への移行


フランス国民は、戦争で芳しくない状態が続いたことで祖国の危機を強く感じ、逆説的ではあるが士気を高めていた。その状況下で、ルイは戦時体制を強化するための法律の承認を拒否する。

この時、フランスを勝利に近づけるための法律を承認しないどころか、ルイもマリーも、軍の機密を外国に流すなどして戦争勝利の妨害を図っていた。これは今の国民国家に生きる人間からすると同胞への裏切りにしか思えないが、ルイやマリーからすると、むしろ同胞と言えるのは各国の王家たちで、革命家たちは自分たちの立場を危うくする厳然たる反乱分子なのだ。自分が経営しているアパートの店子たちが、急にすごい文句言ってくるようになった、みたいな感じかもしれない。

要するに生きている世界の前提条件がまったく違っているのだ。ルイやマリーの持つ前提条件は確実に古いものだけど、生まれた時から当たり前だと捉えていた世界認識を数年で、しかも外圧で捨てることはかなり難しいと思うので、こうなるのも無理ないよなと思う。かなり反面教師にはしたいけど。OSをすぐ変えられるような人間でありたい。

閑話休題。こうしたルイの態度を受けて、ジロンド派の内務大臣ロランがルイに手紙を書く。このロランは、先述のマロン゠ロランの夫である。ロランが内務大臣として書く手紙や文書はほぼすべてマロン゠ロランの手によるものであり、今回の王への手紙もそうだった。すごく気品を感じる文章ですきなので見てほしい。

たとえば、二つの重要な法令が制定されましたが、二つとも公共の安寧と国家の安泰に本質的に関わるものでございます。この二つの法令に対する認可が遅れていることが不信を産み出しているのです。もしこうした事態が長びくようなことがあれば、それは不満を呼び起こし、そして、私はこう申し上げなければならないのですが、現在のような興奮した状況においては、どんな結末にたどり着くやもわからないのでございます。

もはやしりごみしているときではございません。時間を稼ぐ手段すらもございません。革命は人々の心の中にしっかりと根をおろしております。今であればまだ避けることができる不幸を賢明にも予防しないならば、革命は血の代価をあがなって遂行され、それによって革命はさらに確固としたものとなることでございましょう⋯⋯

安達正勝『物語 フランス革命』p105〜106

実はこの時のジロンド派は、革命の主導権を対抗勢力であるジャコバン派に奪われつつあり、王を自派につけることで巻き返しを図りたいとの思惑もあった。

しかし、王はその呼びかけを一蹴する。ここでルイのギロチンへの道は決定的に定まったように思う。

ルイはこの手紙への返信としてロランを罷免。それを受けて、マノン゠ロランは議会に自らが書いた手紙の写しを送ることを夫に勧める。そして議会にて朗読されたこの手紙は熱狂を持って受け入れられ、フランス全土に配布されることが決まる。ロランは時の人となった。

そして国王のこの態度に民衆は激怒。6月にはテュイルリー宮殿に乱入したパリの民衆が2時間国王の前で示威行進を行った。さらに8月10日には兵士とともにパリの民衆が宮殿にやってきて、守備隊との戦闘の末に宮殿を制圧するという事件が起きる。

この制圧を見届けたのち、国会は王権の停止を宣言。王家はタンプル塔に幽閉されることとなった。またこれ以後、革命において民衆がより大きな役割を果たし始める。

王のいない新しい国の形に対応するべく、選挙を経て新たな議会が成立する。これを国民公会と呼ぶ。1785年まで続くこの議会の議員には、ロベスピエール、サンジュスト、ダントン、デムーラン、マラーなどが名を連ねた。

国民公会により、1792年9月21日正式に王政廃止が宣言され、フランスは共和国となる。

共和国の成立に祝杯を上げながらも、ジロンド派は自分たちによってではなく、民衆によって共和国が成立したことを悔しく思っていた。特に、共和国は暴力的で無知な民衆ではなく、良識的な人々によって誕生させされるべきだと考えていたマノン゠ロランは、自らが何よりも成立を願っていた共和国が自分たちの介在なしに誕生したことに、憂鬱な感情を持っていた。

9月虐殺


また、王権停止から王政廃止が宣言されるまでの間に、9月虐殺という事件が起きた。9月2日から数日間行われた、囚人に対する大規模な虐殺である。オーストリアの攻撃によりヴェルダン要塞が陥落し恐怖に震えた民衆が、その恐怖と革命の敵への怒りに駆られて行動した結果起きた惨事だ。

パリでは1000人以上が殺害されたこの事件における代表的な被害者が、マリーの友人であったランバル公爵夫人だ。牢獄内に押し寄せた民衆により殺害された彼女は首を切り取られた。民衆はその首をご丁寧に髪結いや化粧まで施した上で槍に突き刺し、マリーに見せるためにタンプル塔まで行進した。その首を見たマリーは失神したという。

どこかで槍に突き刺した顔の口にワインを流し込み、首や槍を通って流れてきたワインを飲んでたって記述も見たけど、どういうメンタル……すぎる。絶対おいしくないし、何より敵の喉を通ったワインを飲むのいやじゃないだろうか。でもちょっとどんな味がしたかは聞いてみたい。興奮で味なんて覚えてなさそうだけど。

革命期のフランスでは、こうした圧倒的な熱に浮かされた殺人と、もう少し後になって行われるギロチンでの政敵の処刑祭りのような機械的かつ冷静な殺人が共存している。

わたしは、人間の殺人は、一定冷静な状態で思考に基づいて決定した上で実行された理性的殺人と、その場の衝動に突き動かされた感情的殺人に大別されると思っている。

人類学者のリチャード・ランガムは自著『善と悪のパラドックス』(NTT出版)にて、人間には「つねに怒りをともない、多くは抑制を失って感情を爆発させる」反応的攻撃性と、計画的で冷静に行われる能動的攻撃性があると述べているが、反応的攻撃性が感情的殺人に、能動的攻撃性が理性的殺人に対応する。

革命で行われた政敵の粛清や某国の大統領がしている不都合な人間を消す行為は前者で、一般人の起こす殺人事件の大半は後者だろう。

革命では、ジャコバン派を中心とした革命家による理性的殺人と、民衆による感情的殺人の双方が行われ、かつ双方が相互的に作用したことで、あのような血みどろの時代になったように感じる。

話を戻すと、この事件は革命家からもまったく歓迎されず、ロベスピエールは「血!さらに血だ!ああ!やつらはついに、革命を血で溺れさせてしまったのだ!」と嘆き、マラーは「不幸な事件」と述べ、マノン゠ロランは、革命に対して持っていた理想を見失った。

王の裁判と処刑


王政が廃止され、ルイ16世からだたの市民ルイ・カペーとなったルイは、祖国を裏切った人物として、裁判所ではなく国民公会で裁判にかけられることとなった。

裁判に際して国民公会で話し合いが行われ、ジロンド派の議員により、ルイの不可侵性に対する問題提起がなされた。しかし、王政が廃止された後に王権である不可侵性を問題にしたことで、ジロンド派は民衆の反感を買ってしまう。

そんななかで演壇に立ったのが、敵対するジャコバン派の最少議員、わずか25歳のサンジュストである。彼はこう述べた。

「国王を敵として裁かなければならず、我々は国王を裁くのではなく国王と戦わなければならないと私は言いたい」「国王として裁くのか。否。市民として裁くのか。否。反逆者として裁くのだ」「いかなる幻想や慣例で包み隠そうとも王権はあらゆる人びとが立ち上がり、武器を取る権利を有する永遠の罪である。人民の承認があろうとも、それを赦免するには十分ではない。国王は誰であろうと、生まれながらにして非難されるべき存在である。人は罪なくして統治することはできない

王は敵。ちょっと前まで王がいた国でこれ言えるのすごい。しかも25歳……かっこいい。拍手喝采をもって受け入れられた彼のこの演説は、国王裁判を王の処刑へと導くひとつのきっかけとなった。また、サンジュストはこの演説以後頭角を表し、ロベスピエールの右腕として革命を推し進めていくこととなる。

このサンジュストの演説の1週間後、王が反革命派と連絡を取り合っていたことを示す文書が見つかり、サンジュストが作った流れはさらに加速することとなる。

そして1792年12月11日、ルイの裁判が始まる。

ルイにとっては王室の安全が国家の安全であり、つまり王室=国家を脅かすことはしていないというのが彼の意見だったが、その王室=国家とすることが罪とされ、その意見は受け入れられなかった。すっかり常識や価値観が移り変わってしまった世界で、前の世界の価値観に基づいた主張をしても受け入れられることはないのだ。

それでも、王の処刑は行き過ぎだと考えていたジロンド派は、民会を開いて国民の裁可を得るべきだと主張したが、これは混乱を招くとしてロベスピエールに反対された。

1793年1月15日、いよいよルイの処遇に対する採決が行われた。

決議すべき項目は、「ルイは有罪か」「国民の裁可を求めるべきか」「どんな刑に処すべきか」の3つ。まず、有罪か否かの採決が取られ、全会一致で有罪となった。そして国民の裁可は否決された。続いて一日がかりで刑の内容が審議された。その結果は以下の通り。

死刑(ただし執行猶予付きとする26票を含む):387票
追放・幽閉等の刑:334票

こうして、ルイの死刑が決まった。

ルイの処刑は、1793年1月21日、革命広場(現在のコンコルド広場)にて行われた。死に際して、ルイは「私の血によって、あなた方の幸せが確固としたものになりますように。私は罪なくして死ぬ」という言葉を残している。この後にも言葉を続けようとしたが、集まった兵士の太鼓によりかき消されたそうだ。

ギロチンが彼の命を絶った後、彼の首は集まった群衆に向けて高く掲げられた。ギロチンに残った血に、武器やハンカチを浸す人もいたらしい。そのハンカチ今も残ってたらちょっと見てみたい……(聖遺物的な)

ところで、前にどこかで、この時ルイが太りすぎててギロチンに首が綺麗にハマらなかったとか見て、「どれだけ太ったらそんなことになるんだ……」と軽く引きました。でも家にある文献にはそれらしい表記なかったから夢でも見たのかもしれない。

ルイの処刑については、王家がわりと好きな人間としては、「もっとやばいことしてる人間もいるし可哀想だよ〜〜」とか「ルイが死罪だとすれば、ルイよりも敵として倒されるべき人間が世界中に今も昔もたくさんいるだろ」と思うけど、でもしょうがないよなって気もする。しょうがないというか状況を考えると処刑しちゃうの無理ないよなって感じ。

ルイの気持ちも革命家の気持ちも「いやそうだよね〜〜〜〜わかる」って理解しちゃうからなんともだけど、わたしはそういうのを全部経てできた共和国が好きで、ほかは考えられないから立憲王政ならよかったとか処刑やめときゃよかったとかはあんまり思えないです。でもマリーはオーストリアへ送り返してくれればよかったと思う!

でもこの意見は感情論でしかないし、「今のフランスの礎になったからルイの処刑は否定できない」とか考えるのであれば皇帝になったナポレオンのことも肯定すべきであって論理的に矛盾もしていて全然理性が働いていなくて最悪なので適当に聞き流してください!!こういう共感とか怨嗟を全部排除して早く理性で分析できるようになりたい。

ジロンド派とジャコバン派の対立


国王裁判でも、それ以前からも、ジロンド派とジャコバン派は対立していた。特に国王裁判における国民の裁可の否決、ジロンド派のジャコバン派への敗北は、ジロンド派に衝撃を与えた。

そして国王裁判後も、両者の対立は続いていた。ジャコバン派が革命の主導権を握りつつあることに焦るほどに、ジロンド派はジャコバン派を批判することにエネルギーを注ぎ始める。

なぜともに共和国を目指した同じ革命家であるにもかかわらず、彼らはこんなにも対立したのか。

彼らは階級や職業はほぼ似通っていたものの、価値観や気質が違っていた。ジロンド派は先述の通りジロンド県(つまり地方)に基盤を持ち、かつブルジョワ的なエリート志向を持っていた。これは、ジロンド派の象徴であるマノン゠ロランが共和国は粗野で知性に欠ける民衆ではなく、良識ある人々によって作られるべきだと考えていたことにも表れているように思う。

上流市民の代弁者であるジロンド派に対して、ジャコバン派は民衆を擁護し、彼らの代弁者となった。また、ジャコバン派の多くはパリ選出の議員であったことも、対立の要因となった。

ジロンド派とジャコバン派の対立が激化するなか、両者を和解させるため、革命家のダントンがジロンド派に手を差し伸べたが、ジロンド派がその手を取ることはなかった。

マノン゠ロランはダントンの、極めてフランクな性格や豪快なところ、享楽的で女性や金に弱いところを嫌悪していた。その嫌悪により、ジャコバン派との協調のチャンスを永遠に逃してしまった。(でもこういう人間嫌いなのすっっっっごくわかる、ダントンは好きだけど。でも近くにいたら嫌いかも)

そして両派の対立は続くが、当時のフランスは、外国との戦争中であり、国内にも反革命勢力は存在している状態だ。

そのような状況下にもかかわらず対立が収まらないことを危惧し、ここで民衆が立ち上がった。1793年6月2日、数万人の武装した民衆が国民公会を包囲。そのなかで、ジロンド派議員の追放が決議される。

議会の大多数を占める中間層である平原派が、ジャコバン派の批判ばかりのジロンド派に幻滅し、ジャコバン派支持へ流れたこともジロンド派の凋落の要因となった。このジロンド派の失脚により、革命政府の主導権はジャコバン派が握ることとなった。

貴族たちが王に対する自らの権限拡大を狙ってけしかけた革命は、身分の壁を取っ払い自らの能力を活かせる社会を目指した富裕で知的な市民が主導し、ついに、貧しさに苦しむ民衆の手元にやってきたのだ。

恐怖政治


ジロンド派が去った革命政府では、公安委員会を中心にジャコバン派による新たな体制が作られていく。

民衆の協力を得なければならないが、民衆の暴走も止めなければならない。その上で圧倒的多数である平原派の賛同も得ることも求められるという、難しい局面での体制づくりだった。

この局面においてジャコバン派は、反革命分子を排除する恐怖政治を行うことで革命を推進しようとする。この恐怖政治は、民衆が求めたものでもあった。一方で、ジャコバン派のリーダーであるロベスピエールは、もともと死刑廃止論者であり、恐怖政治を積極的に行うような人間ではなかった。

しかし、あまりに根強い反革命分子の存在に苛立ちを覚え、ストレスを溜めた彼は民衆からの後押しに応え、恐怖政治の道を選んでしまった。そして、この恐怖政治が進むことで、ロベスピエールらジャコバン派は自らの首を締めることになっていく。

ところで、ジロンド派が追放される3ヶ月前の1793年3月、革命裁判所が設立されている。あらゆる反革命的企てを裁くために設立され、上告・控訴は一切なしで一度出た判決は即確定判決となる革命裁判所は、数多くの人を断頭台へ送り込む恐怖政治に欠かせないものとなった。

この革命裁判所に、1793年10月14日、マリーアントワネットが召喚される。恐怖政治の最初の犠牲者である彼女は、2日間の裁判ののち、10月16日午前4時頃、死刑を言い渡される。

死刑は即日執行された。断頭台に向かうとき、死刑執行人の足を誤って踏んでしまったマリーは、「Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l’ai pas fait exprès(ごめんなさい。わざとじゃないんですよ)」と言ったと伝えられている。最後の言葉は、「さようなら、子どもたち。あなたたちのお父様のところへ行きます」だった。

その後、ジロンド派の議員21名とマノン゠ロランも処刑された。ジロンド派の議員たちは、処刑場に連れて行かれるまでの道のり、そして処刑場についてからものちにフランス国歌となる革命歌『ラ・マルセイエーズ』を歌っていた。その声は処刑が進むほどに小さくなっていった。

ジロンド派の女王であるマノン゠ロランの処刑は、その8日後の1793年11月8日だった。マノンともうひとり、当日に処刑される男がいた。彼女は完全に怯え切っているその男を見て、「あなたはきっとわたしの処刑を見るのに耐えられないでしょうから」と、先に断頭台に向かうよう促した。

それを命令と違うからと拒もうとした処刑人に対し、「女の最後の願いだというのに、拒むことがおできになりまして」と言ったそうだ。そして断頭台から見えた自由の女神像に向かって「自由よ、汝の名においてなんと多くの罪が犯されたことか!」と最期に叫んだと伝えられている。

なにこれかっこいい……マリーもそうだけど優雅すぎる。それに死の直前まで人を気遣えるのがすごい。本当にこの時期の人たちは死に方がかっこいい。ジロンド派の最後まで『ラ・マルセイエーズ』を歌ってるのも革命に身を捧げた人間たちって感じでかっこいい。

人生を捧げるべき思想を見つけて、生命を燃焼し尽くしてるからこその現世への未練のなさを感じて憧れる。日本だと幕末とかも同じ匂いがしますよね。ちなみに幕末は高杉晋作が好きです。

このほか、女性の権利を訴えたオランプ・ド・グージュ、ルイ15世の公式寵姫であったデュバリー夫人、初期の革命を支えたバルナーヴなどが断頭台に送られている。

エベール派とダントン派の処刑


恐怖政治は日に日に加速していった。血を欲したギロチンは、ついには革命をともに進めてきた同志にも手をかけようとしていた。

1794年3月、まずは民衆に人気の新聞「デュシェーヌ親父」を発行していたエベールと、その一派が処刑された。民衆から大きな支持を得ていた彼は、民衆を利用して革命政府に圧力をかけた。その動きが反革命的とされ、処刑に至った。

続いて1794年4月、恐怖政治を批判したことや公安委員会への批判などを理由に、ダントン派の処刑が決まった。ダントンはロベスピエールの友人で、ダントンがひとり目の妻を亡くした時も、ロベスピエールは彼を慰める手紙を書いていた。さらに、ダントン派の一員であるカミーユ・デムーランとは、同じ学校を卒業した学友であり、彼の結婚式に出席もしていたし、彼の子どもの名付け親はロベスピエールだった。

こうした友情をもってしても、恐怖政治を止めることはできなかった。

ダントンは処刑場への移動中にロベスピエールの下宿先を通った時、ロベスピエールの部屋に向かって「お前も俺の後を追ってくるんだ!」と叫んだという。そして処刑場にて、自分の番が回ってきた時処刑人に「俺の頭を民衆に見せてやれ、こんな頭は滅多にないぞ」と告げ、断頭台へ登っていった。

ダントンの死刑執行後、処刑人はダントンの遺した言葉通り民衆に彼の頭を見せるべく、その首を持ち上げて処刑台の周りを歩いて回った。しばしの沈黙ののち、集まった群衆から大きな叫び声が上がった。(また死に様がかっこいい……)

ところで、この頃のロベスピエールは、極度の疲労を抱え、体調も悪かった。当時の彼は、朝は非常に早く起床して朝食もなしで数時間仕事をしたのち、昼食を食べたら再び仕事をしていた。夕食の後もしばし訪問者を待った後、外出して公安委員会で真夜中まで仕事をする日々だったという。

こうした疲労とストレスが精神状態を悪化させ、恐怖政治を加速させていったのかもしれない。そして友人たちの処刑により更なるストレスを抱えたためか、恐怖政治はさらに進行し、1794年6月に施行された草月法によりさらに裁判手続きが簡略化されたことで処刑の数は莫大に増え、深刻な状態に陥ることとなってしまう。

テルミドールのクーデター


革命政府は、エベール派とダントン派という左右両派を排除して革命政府の一本化を図った。しかし革命をずっと率いてきた彼らの処刑は、革命政府そのものの力を削いでしまった。

そんななか、どんどん増える処刑の数に民衆がうんざりし始めた。実際に、1794年6月の草月法施行からロベスピエールやサンジュストの失脚までのひと月半の間に、恐怖政治の犠牲者の半数、およそ1300名が亡くなっている。

国民公会の議員も、ダントンですら殺された今、いつ自分たちがギロチン送りになるのかと怯えていた。特に議員たちのなかには、革命を利用して自らの利を得てきたものもいた。ロベスピエールからすると私欲を挟んだ彼らは彼らは反革命でしかない。

こう書いていて、マノン゠ロランとロベスピエールは完璧主義的で潔癖という点において非常に似ているように感じる。完璧主義は革命や物事を進める原動力にもなるが、それが行きすぎると、自らさえも滅ぼしてしまうのかもしれない。

ロベスピエールに反革命とされることを恐れた、彼ほど革命に身を捧げていない完璧ではない人々は、自らの命を守るため、結託してロベスピエールを追い落とそうとした。

そうして起きたのが、テルミドール9日のクーデターだ。

サンジュストの演説の途中にタリアンの妨害が入り、タリアンは短刀を振り回しながら、ロベスピエールを弾劾するための演説を始めた。

反ロベスピエール派との妥協の道を探していたサンジュストの演説が最後までなされていれば、もしかするとクーデターは成功しなかったかもしれない。しかし、演説は中断させられてしまった。

ロベスピエールは発言を求めたが、許可されることすらなく、そのままロベスピエール、サンジュストらは逮捕され、翌日には処刑された。

サンジュストはロベスピエールに「Adieu(さようなら)」と告げ、断頭台に登っていったという。また、ロベスピエールはこの時顎に傷を負っていたが、『自決と粛清 フランス革命における死の政治文化』を著したロベスピエール研究会元会長のミシェル・ピアールは自著のなかで、この傷は彼が処刑を前に自殺しようとして失敗してできたものではないかと示唆している。

彼らの処刑が滞りなく行われた後の2日間で、ロベスピエール派の活動家83名が処刑された。こうしてロベスピエール派が一掃され、革命らしい革命の時代は幕を下ろすこととなる。

推し革命家


まだあるんかよ!って思われそうですけど、好きな2人に対して少しだけ語らせてください!!

マノン゠ロラン

彼女の好きなところはなんといっても激つよの知性と、自分を安売りしない気高さだ。

彼女は、小さい頃から書物を読むのが好きで、賢い子どもだったという。家庭教師を雇ったものの、すぐに教えることがなくなってしまったり、もう役目を終えた家庭教師が彼女との会話が楽しいあまり「家への出入りを許してほしい」といったといったエピソードも残っている。

これだけ卓越した知性を持っていたマノンは、結婚相手も自分と同じだけの知識を持つ人であることを求める。この結婚に関する父親との会話が、彼女の自分自身の知性への自信、知性を重視する姿勢、意志の強さを感じられてとても好きだ。

父「ただ私に教えてほしい。ではどのような者がおまえにふさわしいのか」マ「[ふさわしい相手が見つからないのは]あなたが私を育てる中で考えることを教え、勉学に勤しむ習慣を身に着けさせたせいです。どのような男に身を委ねればよいのか私にはわかりません。私と意思疎通ができない者や感性と思考を共有できない者は絶対に受け入れられません」
父「商売に携わる者たちの中にも教養や知識を持っている者がいる」
マ「そうかもしれませんが、私が求めている者ではありません。彼らの教養は片言隻語や少しばかりの礼儀だけで成り立っています。それに彼らの知識はお金に関わることばかりです。きっと子供の教育に手を貸してくれないでしょう」
父「おまえが自分で子供を育てればよいだろう」
マ「もし父親が手伝ってくれなければそれは難しいことだと思います」

『ロラン夫人回顧録』p134より

あととても理性の人で。この時代は啓蒙思想の時代なので理性重視は当たり前かもしれないけど、この理性と思想の重視っぷり、自己での制御を大切にしているところが好き。というか、賛成する。

私は人間全体の関心事や社会の仕組みについて考えるようになった。そうした大きな課題を当てもなく追究する中、私は人格の統一性は個人の幸福に不可欠であるという結論に達した。すなわち、個人の思想と行動が完全に一致していなければならない。まず何が正しいか十分に吟味しなければならない。いったん何が正しいか決定すれば、それを厳格に実践しなければならない。たとえ世界でたった1人になろうとも遵守しなければならない正義がある。人間は感情や習性の奴隷にならずにすむようにそれらを自分で制御できるようになるべきである。人間は、善性を全力で維持したり完璧にしようとしたりする限り、本質的に善性である。それは精神においても肉体においても等しく真実である。

『ロラン夫人回顧録』p92

「人間は感情や習性の奴隷にならずにすむようにそれらを自分で制御できるようになるべきである」その通りすぎてやばい。良……毎朝唱えたいレベルだ。

ここまで書いてきたポイントは引用は回顧録からしているものの、回顧録を読む前からうっすら知っていて好きだったところなのだけれど、最近回顧録を読んで新しく「同じだ!」って思えるポイントも見つけてうれしくなった。

彼女は、筋金入りの共和主義者だった。革命家カミーユ・デムーランは、「革命初期、共和政を考えていた人はフランスに10人もいなかった」といってるけど、そのわずかな人の中に彼女は間違いなく入っていた。

そして彼女は共和政が根付いていた古代アテネに強烈な憧れを抱いていた。

[古代]アテネのことを思うとため息をつきたくなる。アテネにいれば私は専制の光景に悩まされることなくすばらしい芸術を楽しめるだろう。空想の中で私はギリシアをそぞろ歩き、オリンピックを観覧した。そして自分がフランスに生まれたことを残念に思った。共和政体の黄金期に思いを馳せて感概に耽りながら私は共和政体が引き起こした激動をなぞった。

『ロラン夫人回顧録』 p91

わ、わかる……!!!!わたしが残念だと思っているのは日本に生まれたことで、この頃のフランスに生まれられなくて残念なので対象は違うけど、この別の時代に生まれたかった気持ちわかりすぎてやばい。

なんか全体を通して方向性としては自分と似たものを感じるけど、それをわたしができるはずもない、尋常じゃなく高いレベルでやってるところにとっても憧れます。なりたい!なれない!まさに憧れ。

でもこんな感じなのに、社会規範とか自分で決めた女性像にかなり縛られてるのとか、ダントン嫌いすぎて理性的に解決できないとかも人間〜〜〜〜!って感じでなんかそこも好きです。生々しくて、聖人ではなく一般人と同じく人間として生きてんだなって思える。いや死んでるんですけど。

あとなんかわたしは男社会の中で、男を利用してのしあがってる人が好きなんですよね。女性の権利を拡充するために戦う人もかっこいいなと思うんですけど、男を踏み台にして飛躍して陰で実権握ってる女の方が個人的に多分好みで、だから平民から国王の公式寵姫(フランスにおける女性の頂点)までのしあがったポンパドゥール夫人とかデュバリー夫人とかかなり好きです。自分がなりたいのはこっちだな、みたいな。そんなにエネルギーも知性もないからなれないけど!自分にないからかっこよく見えるんでしょうね、好き。

サンジュスト

国王裁判で鮮烈な足跡を歴史に残し、死の天使長と呼ばれながら革命を駆け抜け、27歳になるちょっと前に死んでしまった命燃やし尽くし系の頂点みたいな人間。

サンジュストはもう生き方と、物事への理性的な向き合い方が好きすぎる。

これまで書いてきたように革命ってぐっちゃぐちゃだし、理想と全然違う方向に行くし、「もう何なんだよ💢」って思うんですけど、そういう目の前の現実を受け止めて、すごく理性的に的確に対処しながらも、理想としての自然状態を追求し続けたところが本当にすごい。

理想ばかりを追って現実への対処が疎かにするのでもなく、現実の対処に追われて理想を忘れるのでもなく、ちゃんとバランスを取れている。しかもそれを26とかでやってるんですよ……かっっっこよ。尊敬する。神の申し子???政治家として有能すぎる。死んじゃったの本当にもったいない。生きてたらナポレオンが皇帝になんかなれなかっただろうに。

そして生き方もほんとかっこいいんですよ。わたしがサンジュストの生き方を好きな理由が、この文章に詰まってる。

ナポレオンは栄光のみを追い、野心のみに導かれていたのに反して、サン-ジュストは、彼にとって至上の価値をもっていたとおぼしい、共和国の理念を狂気のように追い求め、最後に死をもってこれに殉じたのであった。

エマニュエル・エジェルテ『サン-ジュスト伝』p7

すべてを捧げるべき理想、至上の価値を理性を持って見定めて、その見つけた理想のためだけに生きて、死ぬことも恐れない、くだらない野心とか欲望に左右されない!感情を超越していてかっこいい!

だからやっぱりわたしは理性をもって人間の動物としてのくだらなく醜くどうしようもない感情とか本能をかなり高いレベルで抑え込んでる人が好きなんですよね。悲しいことになかなか完全に抑制することはできないけど、ホモ・サピエンスであることを越えて真に人間であろうとしてるというか。ありたい姿。

ロベスピエールのことも好きなんですけど、でも正直ロベスピエールより才能あったのでは…?と思うくらいで、わたしより3歳も年下なのにすごすぎる。27歳になった時、彼と比べて自分があまりにもくだらないことに絶望して、今も絶望し続けています。

理想を理性を持って追い続けられる力があるのもうらやましいし、まず狂気のように追い求めたい至上の価値を見つけられているのもうらやましい。革命家たちはみんな、自分たちの信じる理想のために生きて、それが拒否された時にはその理想に殉じて死んでいったわけだけど、わたしにもそういう命を差し出せる理想がほしいし、その理想の実現のために理性を駆使したい。

サンジュストくんが飛び抜けて若いけど、わたしが好きでこうありたいと思う人たち全員40歳になってなくて、それなのにあまりにも立派すぎて、(というか若くして死んだからこそ老いによって自分の若き日々の功績を汚すことがなかったのかもだけど)どれだけ遅くともあと10年以内にどうにか理性を鍛えなければと焦りに焦る。どうしよう。とりあえず理性の鍛え方と理想の見つけ方、募集してます。

おすすめコンテンツ


最後に、これをみてフランス革命に興味を持った方にぜひ見てほしいコンテンツを紹介します。あと参考文献もまとめてるから、興味のあるものがあればぜひ読んでください!初手なら物語『フランス革命』がおすすめ。

1789

いっちばんいい時期の革命が描かれてる!というか正確には革命が始まってすぐ終わるから革命までの諸々という感じだけど、そのある種牧歌的な空気感がいい。

「人間はみんな兄弟なんだ」とか「新しい時代を自分たちで作る」とか全体を通してすごく希望に溢れてて楽しそう。でもそれでいて「権力と闘おう」とか「国王の言いなりにはならない!!」とか闘争心がバリバリなのがバランス良くていいです。あとヒロインのオランプの「自由とは、他人を害さないすべてを成しうることである!」っていうセリフも最高。いつも心にこの言葉を刻んで生きてる。

ていうか革命のミュージカルの動画見てるだけで血が湧き立って「権力と闘うぞ!!!」とか「革命最高!!ぶっ潰して新しい未来を作ろう!!」みたいな気持ちになってかなり元気出るのでなんかそれだけでもおすすめしたい。以前はエネルギーを高めるために出勤前によく見てました。

ひかりふる路

こちらは宝塚による、ロベスピエールが主人公のミュージカル。国王裁判からロベスピエールの処刑までを描いています。

ロベスピエールが題材かつ、革命がドロドロしている時期なので1789よりはちょっと重いけど、でも心に来すぎることなく楽しめる…気がする。しんどいのはしんどいけど!1789がしんどいレベル★☆☆☆☆なら、しんどいレベル★★☆☆☆か★★★☆☆くらい。

革命により家族を奪われた貴族の娘マリアンヌと、ロベスピエールのラブストーリーではあるんですが、ダントン、デムーラン、サンジュスト、マノン゠ロランと革命家がたくさん出てきて、革命の空気感を味わえる作品です。

あとメインのお二人の歌がうますぎる!!最高。

マリー・アントワネット

こちらは革命というか、マリーの生涯(主に革命直前から処刑まで)を描いた作品。

一幕は革命が起きる前だからしんどいレベル★☆☆☆☆くらいだけど、二幕が★★★★★★くらいある。一幕はフェルセンがアメリカ独立戦争から帰ってきたりドレスを選んだりマリーのための宮殿で遊んだり、比較的煌びやかで楽しいのに、二幕から地獄。マリーの服がどんどん質素になってビジュアルボロボロになるし、9月虐殺のランバルの描写もあるし、民衆がやばすぎて具合悪くなりそうになるけど、すごくいい作品だし、革命の狂気的な部分をとても感じられるのでメンタルが元気な時にぜひ。

でもわたしがマリーに感情移入しまくってみるから具合悪くなるだけであって、革命側に感情移入したらもしかしたら大丈夫かもしれない!

ちなみにわたしはフェルセンのことを人類史上もっともかっこよく騎士的な男性だと思っているんですけど、推しがフェルセンをやってて本当に幸せでした。彼は別の作品もロベスピエールの役もやっていて、本当にありがたすぎる。また革命系の作品してほしい。


参考・引用文献

安達正勝『物語 フランス革命』(中央公論新社)

安達正勝『フランス革命と四人の女』(新潮社)

マリー・ジャンヌ・ロラン・ド・プラティエール著・西川秀和訳『ロラン夫人回顧録』

中里まき子『19 世紀フランスにおけるロラン夫人像 ラマルティーヌ,ミシュレ,サント=ブーヴ』

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nordestfrance/15/0/15_21/_pdf/-char/ja

エマニュエル・エジェルテ著・西川秀和訳『サン-ジュスト伝』

山崎耕一『サン=ジュストとフランス革命』
https://senshu-u.repo.nii.ac.jp/record/10358/files/2011_0004_05.pdf

山崎耕一『サン-ジュスト著 『革命の精神』 をめぐって』(武蔵大学人文学会雑誌 31巻 1号より)
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/17877/0100910401.pdf

ピーター・マクフィー『ロベスピエール』(白水社)

ティモシー・タケット『王の逃亡 フランス革命を変えた夏』(白水社)

ミシェル・ピアール『自決と粛清 フランス革命における死の政治文化』(藤原書店)

J・ミシュレ『フランス革命史』(中央公論新社)

リチャード・ランガム『善と悪のパラドックス』(NTT出版)


12月からフランスに行きます!せっかくフランスに行くのでできればPCの前にはあまり座らずフランスを楽しみたいので、0.1円でもサポートいただけるとうれしいです!少しでも文章を面白いと思っていただけたらぜひ🙏🏻