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「きっかけ」

2011年ですから、
すでに10年近い年月が経ってしまいました。

ある女性に出会い、私は、小説を書きたいと思い立ちました。
その女性は、当時70歳を少し過ぎた頃でしたから、現在はすでに80歳はすぎているはずですが、いまだ、実年齢には見えない、非常に若々しく美しいというより小柄なせいか、可愛らしい方です。


   初対面ですっかり打ち解けて、ずっと昔から知り合いだったような、母のような、祖母のような、他人とは思えないとは、そのような感覚なのでしょう。その方も、初対面の時から、私に、まるで自分の分身のような感覚をもたれたそうです。




   その方を、  仮に、ゆうこさんとしましょうか、ゆうこさんに出会わなかったら、小説を書いてみようなどとは思わなかったのではと思います。

殆ど、何の計画性もなく、ただただ、描きたい、書きたいという衝動的な情熱のみで、一目散に書き始めたのですが。

相当な長編を、ある小説投稿サイトに書き始めたのですが、初めてであり、そのサイトでも、あくまでも新人さんでしたが、書き手側の情熱は、読み手側に伝わるのでしょうか、

  お昼休み時間に、 ほんの1行をアップしただけでも、非常に多くの読者さんが、すぐ読んで下さいました。書いている私のほうが、薄気味悪くなるほどでした。そんな熱心な読者さん達にも力を頂き、書き続けられたのではと思います。
約80人の方々は、パソコンの前に陣取っているのではないか、または仕事中も絶えずスマホをチェックしているのではと思われる速さで、アップするとすぐ読書中マークが付きます。ネット小説の面白さでしょうか。そして、80人以外の人達も、それぞれ読書する時間が決まっているのですね。お昼時間の人、午後3時過ぎの人、午後5時過ぎてすぐの人、深夜時間の人、時間がそれぞれ固定されて、約300人の人が毎日、毎日、読んで下さるのです。拙い読み物を、毎日忘れもせずに読んで下さる、それはそれは感謝すべきことでした。


  書き進むうちに、私の母もゆうこさんも読んでくれるようになり、縁の不思議というのか、ゆうこさんと私の祖母が仲良しになり、私の母とゆうこさんのお嬢様がまた、大の仲良しになり、縁が縁を呼び、縁の輪が渦巻き状に大きく大きくなっていきました。





   何がきっかけになるかは、わからないものです。予想もしないことが起こるのが人生なのでしょう。



   


    父のお供で、社会勉強のひとつとして、
随分と高級な誂えの料亭に連れて行ってもらい、

そこで、お会いしたのがゆうこさんでした。


  
  ゆうこさんは、それからちょくちょく私に連絡を下さり、美味しいお豆腐が入りました、素晴らしいさしの入った牛肉が届きました、メロンが、松茸が、新米がと
どれだけ美味しいお料理をご馳走になったかしれません。母の実家に行った折には、必ずゆうこさんに会っていたように思います。



    いつしか、ゆうこさんは、私に一通の手紙を見せて下さり、

その手紙を読み、私の心が騒いだのですね。



  「       お母様、


今日は、お母様にどうしても話しておかなければならない事を、手紙として書きたいと思います。お会いして話すのが筋でしょうが、

                               ・
                               ・
驚かれるはずです、いいえ、お母様は、もしや感じておられるかもしれません。お母様は、勘が鋭いですから、ずっと気づいていたのかもしれません。
                               ・
                               ・
                               ・



許してほしい。許して下さい。お母様に背いた私を。

、、、、、、、、」



  このようにして、便箋6枚に、びっしりと美しいペン字で書かれた、ゆうこさんのお嬢様からのお手紙でした。


   波乱万丈、因果応報、女の情念、一途な女の美しさと恐さ。そして貫く愛の連鎖。

  いろいろな言葉が私の頭の中を駆けめぐりました。


   ゆうこさん親子について、
小説として書いてみたいと激しく思いました。小説としたならば、誰にも迷惑はかからないであろう、フィクションなのですからと、かなり短絡的ではありますが。



      10年などあっという間です。走って走って、駆け足で、ほとんどゆっくりする間などなく、私はあちこちぶつかり、転んで悔し涙を流し、おっとりしているように見えるらしいですが、実際は毎日時間に追われ、カチャカチャとキーボードを叩き、数字、数字に悩まされ、頑張ってきたなぁと思います。育ち方でしょうか、辛い、苦しいと吐露できない性分ですから。泣きたいときは、本を読み泣き、音楽を聞いて、バイオリンのせせぐような音色に涙流していたように思います。


  読むことばかりだった私が、書く楽しみや喜びを知ったのは、小説を書いてからのように思います。


   詩にしても、エッセイにしても、書評にしても、ビジネス用の文書にしても、
それらは事実であって、虚飾も願いも許されませんから。小説を書いて初めて、書いて楽しむ喜びを知ったのかもしれません。




  きっかけは、自身が予期しないときに、
現れるのでしょう。

そして、人と人の出会い、繋がり、予想もしない幸せをもたらしたり、逆にその出会いを境に、不幸が連鎖する場合もあります。私は恵まれていたように思います。
私を信じて下さったゆうこさんは、いろいろな人を紹介して下さり、人脈の幅が広がりました。


    そして、人を思う大切さや、思いを通す辛さや強さをも、ゆうこさんを通して学ばせて頂いたように思います。


   神だけが知るきっかけ、天が与えるきっかけ。

「自分の心のつぶやきを大切にするのよ」

ゆうこさんの言葉です。

「心のつぶやきに耳を澄ませていたら、きっかけが善いものか悪いものか、自ずと気付くはずです。」




これから先、

どんなきっかけに出会っていくのか、楽しみでもあり、少々緊張もしている今日この頃です。


欲張りさんの私は、さらに、よいきっかけに出会えたらと、密かに願っています。

素敵なきっかけが私に与えられたら、こんどは何を始めるでしょうか。
私自身がまだ見えないことが、きっかけの楽しみでもありそうです。