どうしてBLじゃなきゃいけなかったんだろう。
(※あくまで私個人のふわっとした考えですが、腐女子への理解を深めたい方、また同志のみなさん、「こんな意見があるんだ、」くらいに、軽く参考にしてください。)
最初に掘っ立てていろいろ放り込んでいるマガジンは「つれづれなるままに、腐女子、』というタイトルで、
その言葉の通り私は男性同士の恋愛、いわゆるBLを好む腐女子なのだけど、
そういえばそのことについて、あまりここで話したことはなかった。
中2であるスポーツ漫画にズブズブにはまった私は、それからなし崩し的に(経緯も覚えていないくらい成り行きで)腐女子になったのだけど、
結局BLの何が好きなのか。
なぜBL、という形が必要だったのか。
それがずっとわからなくて、今日帰宅途中にまたぼんやり考えながら歩いていたら思いがけずに一応の答えが出たので、書きのこそうと思う。私はこういう思想的なことすぐ忘れるので。
私はそもそも女の子があまり好きじゃないんだと思う。
中学に入って、世界が広がって、私は男の子の絵が描けるようになった。
逆に、女の子は描けなくなっていった。
女の子に対する興味を失ったんだと思う。
そんなところに、同性愛という概念を知ってしまったら、もう。
よく覚えていないけど、確か抵抗はなかったと思う。
「ああ、そういうものもあるんだ」って感じで、何気なく受け入れて、次第に好きになっていった。
じゃあどうして好きになったのか。
今日出た暫定の答えは、
「ふたりがどれだけ好き合っていても、愛しあっても、死ぬまで一緒にいたとしても、ふたりの遺伝子がかたちになって残ることは絶対にないから。それがどうしようもなく切なくてエモくて、最高にラブい」
最近、私が推しカプについて考えているとき、だいたいいつもテーゼとして
「この関係に終わりがあると知っていて、それでもなおふたり一緒に全力で馬鹿やれるってのが最大の理想」
というのを置く。
ふたりだけの暴走。最後まで燃え尽きること。
ふたりだけで完結する、極限まで歪で、かつ美しすぎる愛。
それが、私の好きなBLで、
外から見ているには魚も住めないような綺麗すぎる川が1番美しいのだという、
そんな無機自然を愛でることにも似た感情を、生きがいとして抱えている。
これはメモなので足りない部分もあるのだけど、また何か思いついたら書くので、今は目を逸らしておくことにしましょう。言い訳でした。
ヘッダーはニシキアナゴ。
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