日本の道徳観
エニアグラム、タイプ6の国、日本の道徳観の話です。
タイプ6は一般的には常識的な人です。
また、リソ&ハドソンが言うように、通常レベルのタイプ6は自分自身で判断をせずに、権威やルールや法律や法典など、なんらかの「聖典」に頼って生活しています。
(通常のタイプ6は)自己への信頼は消え始め
自分自身で決定を下さずに、文書資料、権威のある印刷物、規則・法令 ─── 何らかの「聖典」─── などに前例か答えを求めるようになる
ですから、何かトラブルが起きると、その「聖典」を元に解決しようとします。
では、「聖典」が無い状態だとどのようにするのか?というと、このようなときにはトラブルに対応できません。ですから、そんなときには「ルール作りを」「法整備を」という言葉が出てきます。新聞などで、ときたま目にする言葉です。
ここまで書いて、ならば、タイプ6は法律やルールなどの「聖典」を大切にする性格タイプなのか?と言われれば、それは違います。
いくつか問題点を内在しています。
今回は、日本の道徳観に関連して、この問題点を2つほど書いていきます。
一つ目
確かに、タイプ6はエニアグラムの思考の否定点で、自分で考えることが苦手で、それで、権威やルールやその人の所属する集団(いわゆる世間一般)にその判断を任せることが多いのですが・・・、
ですが、そうやって、自分の外の言うことを良く聞いて育っているタイプ6には問題点があります。
どういう問題点かというと、そういう育ちをしている人には、"内発的道徳観"が無いということです。
つまり判断を外にゆだねているので、判断がその人の内側には無く、周りがルールを無視している状態だと、当人も合わせて無視する傾向が出てくるといういものです。
いわゆる
「赤信号みんなで渡れば怖くない」
状態になるのです。
これは、交通ルールを無視するときや、未成年の飲酒、政治家でも白紙領収書や、資金を往復させることで寄付金控除の還付金をもらう行動をとるようになったり、官僚でも組織的な天下り、大学生でも「アメフト部員 集団のぞきで50人出場停止処分」事件など、
他人が見ていない、文句を言わない状況であれば、自分たちの安心・安全・安定が損なわれることも無いので、タイプ6はルールを無視し始めます。
ここで、「自分たち」と書いていることに注目してください。タイプ6は集団主義なので、集団として安心・安全・安定ならば、集団として安心・安全・安定と思ったならば、ルールを無視し始めるのです。
これは、個々人の内発的道徳観が無いことから来る問題です。
さらには、やったことも問題なのですが、やったことを止めなかったことも問題です。
「不作為の罪」というものです。
判断を周りに求めているので、周りでなにか間違いが起きていても、周りに流されてしまい、止めることができません。
二つ目
安心・安全・安定が好きなタイプ6ですが、その安心・安全・安定がゆらぎだすと、「聖典」作りを始めようとします。新聞などで、問題を取り上げるたびに、「ルール作りを」「法整備を」「協定つくりを」と、言っているあれです。
ここまでは、まあ、良いのですが、
安心・安全・安定が本格的に損なわれ始めると、無理にでも安心・安全・安定を作り始めようとします。
本来の「聖典」、つまりルールや法や協定や約束を破ってまでも、自分の安心・安全・安定を求め始めます。
法の解釈を変えるとか、国語の解釈を変えるとか、「するはずだった盛り土をしていないけど問題はないでしょ」とか、証拠隠蔽・改竄工作などをするとか、
タイプ6は、「聖典」のほうをいじる(もしくは、「聖典」の前提条件をいじる)ことにより、安心・安全・安定の確保を図ることがあります。
場合によっては、あれほど頼っていた「聖典」を無視することすらあります。
そして、これらの行為も大抵「集団」で関わることになります。
集団、集団、と書いていますが、タイプ6は集団と関わって生きるタイプなので、周りが正しい行いをしている中で、一人だけ悪い行いをすることはタイプ6にとっては難しいことですし、逆に、周りが悪いことを行なっている中で一人正論や正義をかざすこともタイプ6にとっては難しいことなのです。
まとめますと、
タイプ6は、始めっから無法というわけでは無いのです。
自分一人での判断ができないタイプなので、大抵、自分の外に判断を求め、その場合は、ときに法も頼りにします。
ですが、安心・安全・安定が確保できて気がゆるんでいる場合や、
逆に、安心・安全・安定が確保できず、追い詰められると感じた場合に、
頼りにしていた法を、自分の都合良く改造をし始めたり無視し始めます。
これが、他の性格タイプからは、一見して良く分からない、「従順なようでいて、赤信号も渡るし、妙な強弁もする」タイプ6世界の道徳観なのです。
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