異なる意見と最近の日本
日本はエニアグラムのタイプ6の国で、
リソ&ハドソンのレベルの記述の中ではこう書かれています。
健全なタイプ6は、自分のまわりで何か不適切なことが起きていることを感じ取ったり、自分が関与している組織の中で他者が力を悪用していることを察知したりすれば、怖れずに疑問を提起する。(略)しかし、これから見ていくように、通常のタイプ6はこういった状況になると怖じ気づき、(以下略)
健全な日本人がいれば、上記のように自分が関与している組織の正常化に努めるわけです。
ただし、健全であることは難しいことなので、通常レベルだと「長い物には巻かれろ」「触らぬ神に祟りなし」となるわけです。
リソ&ハドソンにはこのような記述もあります。
極端に党派的かつ権威主義的であり、他者を「自分に従う」人と「自分に逆らう」人とに厳密に分ける。すべての人が、われわれ対彼ら、部外者対部内者、友人対敵というように遠慮会釈なく二つの分岐にくくられる。「良くも悪くも私の国(権威、指導者、信念)だ」というのが彼らの態度である。誰かが彼らの信念に異議を唱えれば、自分の生き方そのものへの攻撃とみなす。
つまりですね。
私がタイプ6日本の問題点を書いたり、
ネットで、例えば、自民党の問題点(失言を言う古参議員、のらりくらりの統一教会問題)を言われると、
自民支持者の中には、それを“攻撃”と受け止める人がいるということです。
「自分の生き方そのものへの攻撃とみなす」人がいるということです。
それで、そのような人は対立する集団で問題があると嬉々として問題をあげつらうわけです。もう後でブーメランと言われる危惧とか関係無く。なぜって、今、攻撃のターンだからです。攻める場面だから、とにかく攻めているわけです。
言論を攻撃と防御でとらえているわけです。
最近読み直した
『知的であるかどうかは、五つの態度でわかる。|Books&Apps』
を読んでの感想です。
少し前に訪れた大学の先生から、面白い話を伺った。それは「知的な人物かどうか」という判断の基準に関するものである。
一つ目は、異なる意見に対する態度
知的な人は異なる意見を尊重するが、そうでない人は異なる意見を「自分への攻撃」とみなす
五つ目は、人を批判するときの態度
知的な人は、「相手の持っている知恵を高めるための批判」をする。そうでない人は、「相手の持っている知恵を貶めるための批判」をする。
この2つがレベルの落ちたタイプ6の態度とつながっているように思えました。
たとえタイプ6に関わらずとも、エニアグラム的に見ても、レベルの落ちた態度と言えるでしょう。
少し余計なことを書くと、五つ目の項目は、具体例がはっきりと思い浮かばなかったので、具体的を示していただきたいとも思いました。なんとなくは分かるのですが、それは分からないことと同義かも知れないので。
レベルが落ちたタイプ6なのか、知的でない人なのか、異なる意見を攻撃と受け止める人が一定数いて、
それはネットの中にも散見されることを残念に思っています。
いやまあ、異なる意見を受け止めることは確かに難しいことなのですが。
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