いまごろ「白紙撤回された新国立競技場」の話を読んでの感想

ザハ・ハディドさんで検索をかけていたら、以下の文章を見つけたので読んでの感想です。

 イラク出身でイギリス国籍の建築家、ザハ・ハディド氏の案にいったんは決まりながら、白紙撤回された新国立競技場。巨額の建築費ばかりが注目されたが、問題はそれだけではなかった。2020年の東京五輪に必要なのはどんなスタジアムなのか。

イギリスで12年間、建築設計に関わり、ロンドン五輪では馬術の会場を担当した山嵜一也氏と、スポーツライターとして世界各地のスタジアムを訪れてきた杉山茂樹氏が語り合った。

山嵜「競技場でいいものを作ればオリンピックが招致できる」というような考え方で終わったんですよね。「いいもの」という考え方の問題ですが、たぶん「著名建築家を雇った僕たち東京ってイケてない?」と、招致委員会の人たちは思っていたんです。そして、実際、世界的建築家であるザハさんの案を採用して、「こんなスタジアムで五輪を僕らは開催できますよ」とやり、東京五輪が招致できた。

 新国立競技場コンペの授賞式の際に僕はザハさんにインタビューをしました。噂には聞いていましたが、天才アーティストみたいな感じで、本当にこういう人がいるんだ、という対応で面白かった。ある意味、聞き手である私は試されていました。でも、それが彼女のやり方でもあるんです。自ら演じ、孤高の人としてブランド化している部分もあると思う。

 ロンドン五輪で彼女は競技場の設計を担当していたんです。最初はすごく大きなものを作ったんだけれども、オリンピックが終わったら市民プールになるんだから、そのサイズは要らないだろう、もうちょっと縮小してやろうと、組織委員会と話し合ったのだと思います。そういうことを東京ではやってなくて、ゼロかイチかになってしまった。彼女はギリギリまで「設計変更したら間に合わない」と発言していた。でも白紙撤回でゼロだと言ったら、「こういうのもできますよ」とか、プロモーションビデオで日本人の感情に訴えかけてきた。しかし、その段階は白紙撤回する前に話し合いをやってなきゃいけないのに、議論ができていなかったのではないでしょうか。
(略)
たぶん彼女の中ではすごく余裕を持って怖い顔をしていたんだと思うんです。余裕を持ちながら演じているところがあった。そこは交渉だから戦いですよね。でも変なふうにありがたがっちゃっているから、それが全然うまくできてないという感じがしました。

こういう駆け引きは混沌が苦手なエニアグラムのタイプ6な日本人には苦手なものとなります。

「ザハさんは“変更したら間に合わない”と言っています」
「なに!? 変更できないの?ならやめよう」
「ザハさんは“変更できる”と言っています」
「なに!? いまさらできるって? もう遅いよ。やめよう」

タイプ6は混沌が苦手です。混沌に向き合うことになる判断や決断も苦手です。なので、一度決めてしまうと変更ができない傾向があります。


山嵜 (略)ザハ案に決まって、「ああ、やっぱりこういうのを選ぶんだ」と思いました。世界的な賞の受賞歴がコンペの応募資格であることと、東京五輪招致に向けて、そのメイン会場である国立競技場の役割を考えれば、著名建築家であるザハのような派手なデザインを選びたかったのは当初からある程度予測できていました。だから「これが僕の国の建築文化だよね」という諦めの気持ちもあった。しかし、東京五輪招致が決まる前、日本建築界の重鎮である槇文彦さんという建築家が問題提起をしたら、それにともない他の建築家も声を上げ始めた。本当はそれではいけない。言うべきところは言わなきゃいけないと、私自身、反省しました。

私はこの文章を読んで「なぜザハ案だったのか?」がやっと理解できました。
世界的な賞の受賞歴がある有名人に派手なデザインで競技場を作ってもらうことで東京五輪招致においてアピールしたかったわけですか・・・。
ん?え? コンパクト五輪を言いながらそこは派手にお金を使いたかったわけですか?
内と外でそれぞれ都合よく見せたかったんだろうなあ。
この後に続く文章で「マスコミが取り上げるのは建築費がかかりすぎるという話ばかり」というのを読むと、マスコミも分かっておらず、その報道を頼りにする一般人も当然分かっていなかったということですね。

ときどき思うのですが、日本の報道は、急に湧き上がる混沌に対して「何かが起こった何かが起こった」とニュースにするのですが、その何かが何なのか?何で起こったのか?を突きつめることなく、事象を垂れ流すだとか相手の言い分をただただ垂れ流すとか、なにも考えずに混沌や事象(個人の発言含む)にただただ反応しているだけということがありますね。


杉山 建築の世界の人が反対を言い出すのは、槇文彦さんが言ってからでしたね。マスコミが取り上げるのは建築費がかかりすぎるという話ばかりだし。じゃあ建築費が安かったらあれでよかったのか、という話もあるじゃないですか。メディアの反応も悪かったし、その前に、本当にみんな真剣に考えたのかというと、誰も考えてないようなところがある。だから責任のなすり付け合いみたいになってしまった。ああなった原因は、山嵜さんはどこにあると思われます?

山嵜 おおもとは、コンペの初期設定が間違っていたと思います。すなわち、間違った認識でも進めようと言った主催者、JSC(日本スポーツ振興センター)などの関係者に、建築や都市に対する思い、いわば建築リテラシーがなかったという話です。ただ、それは建築業界が反省しなきゃいけない話でもある。コンペの初期設定を作った人が悪いのだとしたら、じゃあ一般人でもある彼らに対して、建築業界はどれだけの説明をしてきたのかというと、やっぱりしてないだろうと感じます。
 大学などの専門教育機関としては建築家をたくさん養成したかもしれませんが、専門家以外の人に建築業界はアプローチしてきたか。建築や都市、街並みはあらゆる人に関わる話なのに、やはり日本にはその議論をする土壌が少ないと思う。結局、内向きの議論ばかりで、ザハ案についても業界の中でワーワー言っていたわけです。「彼女に作っていただけるなんて、こんなチャンスはない」みたいな意見もウェブで目にしました。

タイプ6は安心・安全・安定を求め、
多数であることや、一度決まったことに安定を感じる傾向があります。
それで、そういった流れができてしまうと反対する人は出なくなります。
今回は、槇文彦さんというかたが流れを変えたようですが、それだけの力のあるかただったということのようです。
普通のタイプ6は空気に流されます。

それと
「専門家以外の人に建築業界はアプローチしてきたか」
という部分。
これはどこまでタイプ6と関係するかは分かりませんが、
どの業界でも、専門家以外へのアプローチはしていないと思いました。
あえてタイプ6的に説明すれば、一般人に説明すると、知識を得た一般人からの意見が業界に入ってくることになり、その混沌を嫌っているという面はあるかも知れないと思っています。
対話であるはずのものも、それが混沌に結びつくとなると喧嘩と同じようにとらえてしまいイライラとしてそれを避けようとするわけです。
意見と批判は、どちらも混沌ということで混ぜてとらえているので、混沌嫌いのタイプ6は外から何も言われたくない。それで専門家以外へのアプローチが消極的になる。

そしてこの
「専門家以外の人に建築業界はアプローチしてきたか」
「建築や都市、街並みはあらゆる人に関わる話なのに、やはり日本にはその議論をする土壌が少ない」
「結局、内向きの議論ばかりで」
の部分は前回取り上げた「新福岡県立美術館プロポーザル・コンペ問題」にも言えることです。
今、福岡で、日本でこの話題をしている人が一般人にいるのかどうか。私だって本当の意味で理解していると思っていません。そこは建築業界のアプローチが足りないと思っています。
「コンペの初期設定が間違っていた」というか(初期設定に含まれない)初期設定的な何かが間違っていたのだと思います。そして、その影響を受ける福岡県民にも建築リテラシーが無いので何が起こっているのか分からない。分かっていない。それは、常日頃、建築業界が専門家以外の人たちにアプローチしてこなかったのも原因のひとつとなる。もっともタイプ6文化な日本人なら議論そのものを嫌がるので、上から下まで「議論をする土壌が少ない」現状はなかなか変えられないとは思っています。


杉山 山嵜さんはザハ案をどう思いましたか。

山嵜 僕らの世代にとって彼女のデザインは、学生時代から慣れ親しんでいるので、目新しさはない。ただ確かに、五輪招致のために派手な建築デザインを著名な建築家に作ってもらうというやり方があるのは分かります。しかしそれをやるなら、きちんと敷地となる場所や、低成長経済である日本の社会背景などを精査してコンペの初期設定を考えるべきだし、オファーを出すべきだと思います。それなしにコンペを開催してしまった。だから最優秀案に選ばれながら白紙撤回されたザハさんは被害者とも言える。

いや、タイプ6な日本人は、それらを含めた「正解」をザハさんに求めていたのだと思います。
これもタイプ6の「依存」のひとつです。
タイプ6って、不満は言うけど、具体的な要望とかは言わない傾向があります。

通常のタイプ6とは「当事者になりたくない人」なんです。

だから、
「きちんと敷地となる場所や、低成長経済である日本の社会背景などを精査してコンペの初期設定を考えるべきだし、オファーを出すべきだと思います」
と言われても、それが正論にしても、そんな当事者にはなれないのです。

また、権力者側に「世界的な賞の受賞歴がある有名人に派手なデザインで競技場を作ってもらうことで東京五輪招致においてアピールしたい」という隠れた意図がある場合において、「敷地となる場所や、低成長経済である日本の社会背景などを精査する」なんて些末で面倒なことです。
パラメーター(項目)が増えると未知や混沌も増えます。これはタイプ6な日本人にとってもストレスです。

そのような
「当事者になりたくない」「責任を取りたくない」タイプ6な日本にとっての、
コンペとは公募とは意見募集とは合議とは閣議決定とは、
お手軽に「事前に決めてある正解」を選びたいときに権力者が責任を取らなくてよいようにするための言い訳の“装置”となってしまっているのです。


杉山 建築の世界にはやっぱりヒエラルキーというのがあるんですね。

山嵜 ありますよ。だから槇さんが問題提起をしなければ、もしかしたら粛々と事が進んでいたかもしれません。

この箇所は複雑ですね。理想としては、ヒエラルキーに関係なく、その意見が正しければ受け入れらるべきです。
今回は、ヒエラルキーが良い意味で発揮されたということになるのかも知れません。

※『出過ぎた杭には手が出せない日本


山嵜 (ロンドン五輪のとき彼女は縮小案を呑んだ)そういう前例があるのだから、話し合いの仕方はいくらでもあるはずなのに、たぶん全然できていなかった。結局、発注する側、JSCや組織委員会のほうに「五輪や競技場をこうしたい」という明確なビジョンがない。そのような五輪のビジョンがないと、これから他の競技施設でも似たような問題は出てくるような気がします。

杉山 「こういうものを作ってくれ」という意思を何も感じないですよね。それを誰一人全然打ち出せないから、受け身になっちゃうというところがある。

山嵜 今のところ、他の競技施設もお金の話に終始していますが、その前にどうしたいかというビジョンが開催国である私たち日本人に見えてこないし、ストーリーも届いてこない。

「そのような五輪のビジョンがないと、これから他の競技施設でも似たような問題は出てくるような気がします」
これを
「ビジョンがないと、これからも似たような問題は出てくるような気がします」
に変えてみれば、
前回取り上げた新福岡県立美術館プロポーザル・コンペの問題もこの文脈の上にあるのだと想像できます。

知情意の知において、関係者を構築するエニアグラムのタイプ6な日本は、安心・安全・安定を欲する性格です。
そして、安心・安全・安定を求めて、絶対安心な正解を求め、その知をコピーしようとします。

日本は正解をコピーすること“まで”はできます。できるんです。
ただし、それは思考停止に正解をコピーしたに過ぎないんです。
その中にあるエッセンスとか、本質などは気にしていないのです。求めているのは安心・安全・安定なので、「これさえやっていれば良い」という正解をただただ思考停止に無批判にコピーしようとしているんです。

となると、その正解に問題があった場合に対応ができなくなってくるんです。微調整や変更ができない。なぜって本質が分かっていないから。

「五輪や競技場をこうしたい」「こういうものを作ってくれ」というものは始めからないんです。ありません。ただただ絶対安全な誰からも批判されない正解を求めているんです。

「受け身になっちゃう」って、それはタイプ6は依存的ですから。

終わり。



蛇足

タイプ6日本から離れて、
以下の話も面白かったです。
この話は2015年12月に書かれたものです。

山嵜 そうですね。あとはランニングコストですよね。僕が担当した(ロンドン五輪)馬術会場も簡素な作りだからといったって、建設費は安くはないんですよ。だけど終わったら撤去するからランニングコストがかからない。そのほうが環境に優しい、サスティナブルであるとか、言うんですよ。

杉山 日本はまだ土建屋さんの発想から抜けられない?

山嵜 日本では建築は儲けるための手段という発想があるから、ロンドンの話をすると「理想論だよ」という反応は結構あります。その意味では新国立競技場の白紙撤回というのは、日本という土建国家にしてみれば大きなターニングポイントだと思います。しかし、出てきた新しいコンペの要綱はそんなに変わってない。何のための白紙撤回だったのか、という疑問はあります。

杉山 山嵜さんが任せられるとしたらどんな感じのものを考えます? そもそも建築家には「スタジアム作りたいな」という気持ちはあるんですか。

山嵜 建築家としてスポーツの舞台に関われるというのは一つの喜びだと思います。ロンドン大会のように都市を舞台にした五輪を経験した上で、東京五輪の競技場のことを考えるならば、どこの場所に、というのが決まった時点で、都市型五輪の競技場計画はほぼ完成したも同然な気がします。だから上野公園内とか東京駅前と言った瞬間に僕の仕事は終わる。街に競技場をと考えるならば、現実的に考えて仮設になるので、デザインできる余地はそんなにないんです。あとは周囲の街並みを借景として取り込み、会場だけでなくテレビ画面を通していかにして世界中の人々に見せていくか。
(略)
そう。それこそ東京でしょ、という場所を見つけたい。

杉山 新宿御苑とか、いいと思うんだけどな。

山嵜 御苑も面白いですよね。御苑なんて本当に現実味のある場所で、新宿の高層ビルが見えて広場がちゃんとある。いいと思うんですけど、全然話になってない。例えば東京駅の行幸通りや皇居前も、道路を迂回したりしてやろうといえばやれるはずなんです。なぜそういうところを競技場として使おうというアイデアが出ないのか分からない。

ロンドンのビーチバレーボール会場なんてすごい場所にあったんですよ。バッキンガム宮殿の目と鼻の先で街の中心部。しかも、2012年は女王の即位60周年の年で、その式典が6月の初めにあり、オリンピックは7月の後半。その式典には多くの人が集まるコンサートが開催されたので、近隣の競技場の現場では建設はおろか資材の搬入すらできなかったんです。だから実際そのビーチバレーボール会場は、1ヵ月半ぐらいで作っちゃったんです。

東京でもそういうことが可能だと思うし、それだったらかなり大胆な場所でもできるはずなんだけれども、今のところそんなに面白いところは出てこない。東京って、いい景色いっぱいあるんですよね。だけど五輪会場は既存競技場のある場所や広大な敷地のある臨海の埋め立て地だと、決めつけちゃってるような気がする。だから、僕は半分冗談だけど半分本気で、「馬術クロスカントリー競技を明治神宮で」と言ってるんです。

文章を全部読んでいただければ分かることですが、
せっかくの東京五輪を東京の中心部から離れたところでやるのではなくて、
世界中が見る五輪の競技風景の中に大胆に東京の街並みを入れて、東京という都市をいかに世界にアピールするか、という視点が会場の選定に抜けているという話です。ロンドン五輪ではそういった視点があったそうです。

こういった戦略的な視点が、山嵜さんのような人から外から言われたときに、それを柔軟に受け入れ変化していくことがタイプ6な日本は苦手なのが惜しいところです。目新しい意見とは、未知や混沌でもありますから内容を知る前に拒否反応が出てしまうという。

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