ザハ・ハディドさんで検索をかけていたら、以下の文章を見つけたので読んでの感想です。
こういう駆け引きは混沌が苦手なエニアグラムのタイプ6な日本人には苦手なものとなります。
「ザハさんは“変更したら間に合わない”と言っています」
「なに!? 変更できないの?ならやめよう」
「ザハさんは“変更できる”と言っています」
「なに!? いまさらできるって? もう遅いよ。やめよう」
タイプ6は混沌が苦手です。混沌に向き合うことになる判断や決断も苦手です。なので、一度決めてしまうと変更ができない傾向があります。
私はこの文章を読んで「なぜザハ案だったのか?」がやっと理解できました。
世界的な賞の受賞歴がある有名人に派手なデザインで競技場を作ってもらうことで東京五輪招致においてアピールしたかったわけですか・・・。
ん?え? コンパクト五輪を言いながらそこは派手にお金を使いたかったわけですか?
内と外でそれぞれ都合よく見せたかったんだろうなあ。
この後に続く文章で「マスコミが取り上げるのは建築費がかかりすぎるという話ばかり」というのを読むと、マスコミも分かっておらず、その報道を頼りにする一般人も当然分かっていなかったということですね。
ときどき思うのですが、日本の報道は、急に湧き上がる混沌に対して「何かが起こった何かが起こった」とニュースにするのですが、その何かが何なのか?何で起こったのか?を突きつめることなく、事象を垂れ流すだとか相手の言い分をただただ垂れ流すとか、なにも考えずに混沌や事象(個人の発言含む)にただただ反応しているだけということがありますね。
タイプ6は安心・安全・安定を求め、
多数であることや、一度決まったことに安定を感じる傾向があります。
それで、そういった流れができてしまうと反対する人は出なくなります。
今回は、槇文彦さんというかたが流れを変えたようですが、それだけの力のあるかただったということのようです。
普通のタイプ6は空気に流されます。
それと
「専門家以外の人に建築業界はアプローチしてきたか」
という部分。
これはどこまでタイプ6と関係するかは分かりませんが、
どの業界でも、専門家以外へのアプローチはしていないと思いました。
あえてタイプ6的に説明すれば、一般人に説明すると、知識を得た一般人からの意見が業界に入ってくることになり、その混沌を嫌っているという面はあるかも知れないと思っています。
対話であるはずのものも、それが混沌に結びつくとなると喧嘩と同じようにとらえてしまいイライラとしてそれを避けようとするわけです。
意見と批判は、どちらも混沌ということで混ぜてとらえているので、混沌嫌いのタイプ6は外から何も言われたくない。それで専門家以外へのアプローチが消極的になる。
そしてこの
「専門家以外の人に建築業界はアプローチしてきたか」
「建築や都市、街並みはあらゆる人に関わる話なのに、やはり日本にはその議論をする土壌が少ない」
「結局、内向きの議論ばかりで」
の部分は前回取り上げた「新福岡県立美術館プロポーザル・コンペ問題」にも言えることです。
今、福岡で、日本でこの話題をしている人が一般人にいるのかどうか。私だって本当の意味で理解していると思っていません。そこは建築業界のアプローチが足りないと思っています。
「コンペの初期設定が間違っていた」というか(初期設定に含まれない)初期設定的な何かが間違っていたのだと思います。そして、その影響を受ける福岡県民にも建築リテラシーが無いので何が起こっているのか分からない。分かっていない。それは、常日頃、建築業界が専門家以外の人たちにアプローチしてこなかったのも原因のひとつとなる。もっともタイプ6文化な日本人なら議論そのものを嫌がるので、上から下まで「議論をする土壌が少ない」現状はなかなか変えられないとは思っています。
いや、タイプ6な日本人は、それらを含めた「正解」をザハさんに求めていたのだと思います。
これもタイプ6の「依存」のひとつです。
タイプ6って、不満は言うけど、具体的な要望とかは言わない傾向があります。
通常のタイプ6とは「当事者になりたくない人」なんです。
だから、
「きちんと敷地となる場所や、低成長経済である日本の社会背景などを精査してコンペの初期設定を考えるべきだし、オファーを出すべきだと思います」
と言われても、それが正論にしても、そんな当事者にはなれないのです。
また、権力者側に「世界的な賞の受賞歴がある有名人に派手なデザインで競技場を作ってもらうことで東京五輪招致においてアピールしたい」という隠れた意図がある場合において、「敷地となる場所や、低成長経済である日本の社会背景などを精査する」なんて些末で面倒なことです。
パラメーター(項目)が増えると未知や混沌も増えます。これはタイプ6な日本人にとってもストレスです。
そのような
「当事者になりたくない」「責任を取りたくない」タイプ6な日本にとっての、
コンペとは公募とは意見募集とは合議とは閣議決定とは、
お手軽に「事前に決めてある正解」を選びたいときに権力者が責任を取らなくてよいようにするための言い訳の“装置”となってしまっているのです。
この箇所は複雑ですね。理想としては、ヒエラルキーに関係なく、その意見が正しければ受け入れらるべきです。
今回は、ヒエラルキーが良い意味で発揮されたということになるのかも知れません。
※『出過ぎた杭には手が出せない日本』
「そのような五輪のビジョンがないと、これから他の競技施設でも似たような問題は出てくるような気がします」
これを
「ビジョンがないと、これからも似たような問題は出てくるような気がします」
に変えてみれば、
前回取り上げた新福岡県立美術館プロポーザル・コンペの問題もこの文脈の上にあるのだと想像できます。
知情意の知において、関係者を構築するエニアグラムのタイプ6な日本は、安心・安全・安定を欲する性格です。
そして、安心・安全・安定を求めて、絶対安心な正解を求め、その知をコピーしようとします。
日本は正解をコピーすること“まで”はできます。できるんです。
ただし、それは思考停止に正解をコピーしたに過ぎないんです。
その中にあるエッセンスとか、本質などは気にしていないのです。求めているのは安心・安全・安定なので、「これさえやっていれば良い」という正解をただただ思考停止に無批判にコピーしようとしているんです。
となると、その正解に問題があった場合に対応ができなくなってくるんです。微調整や変更ができない。なぜって本質が分かっていないから。
「五輪や競技場をこうしたい」「こういうものを作ってくれ」というものは始めからないんです。ありません。ただただ絶対安全な誰からも批判されない正解を求めているんです。
「受け身になっちゃう」って、それはタイプ6は依存的ですから。
終わり。
蛇足
タイプ6日本から離れて、
以下の話も面白かったです。
この話は2015年12月に書かれたものです。
文章を全部読んでいただければ分かることですが、
せっかくの東京五輪を東京の中心部から離れたところでやるのではなくて、
世界中が見る五輪の競技風景の中に大胆に東京の街並みを入れて、東京という都市をいかに世界にアピールするか、という視点が会場の選定に抜けているという話です。ロンドン五輪ではそういった視点があったそうです。
こういった戦略的な視点が、山嵜さんのような人から外から言われたときに、それを柔軟に受け入れ変化していくことがタイプ6な日本は苦手なのが惜しいところです。目新しい意見とは、未知や混沌でもありますから内容を知る前に拒否反応が出てしまうという。