タイプ6的責任回避が嫌だったりする

前々回(91)からの続きです。党議拘束は与党にしかないと思われがちですが、実際には殆どの政党に存在します。(念能力のようなものではありませんので一応。)

はてコメでは、

ごめん、よく分からんのやけど「おれっちは党議拘束きかないんで」ってことじゃなくて、「他の政党にもあるから、しゃーないよね!」ってことなん? 内側から変える!とかいうのなんやったん?

なんて言われています。

当人がタイプ6かは分からないものの
「当事者」であることから逃げ、
自分の外にあるものに理由を求め(依存して)責任を回避するのはエニアグラムのタイプ6的です。
タイプ6は日本人の国民性でもあります。

ちなみにエニアグラムにレベルという考え方を持ち込んだリソ&ハドソンの記述によれば、

健全なタイプ6は、自分のまわりで何か不適切なことが起きていることを感じ取ったり、自分が関与している組織の中で他者が力を悪用していることを察知したりすれば、怖れずに疑問を提起する。(略)しかし、これから見ていくように、通常のタイプ6はこういった状況になると怖じ気づき、(以下略)

レベルが下がってくると記述も変わってきます。

(略)(通常)では、より健全な<段階>にいるタイプ6に見られる自己への信頼は消え始めており、(略)通常のタイプ6は、自分自身で決定を下さずに、文書資料、権威のある印刷物、規則・法令 ─── 何らかの「聖典」─── などに前例か答えを求めるようになる(指導者として働く通常のタイプ6は、特にそうすることが多いようで、自分で決めることはせずに、委員会などをつくり、総意によて運営するようになりがちである)。

「自己への信頼は消え始めて」いるのです。
「通常のタイプ6は、自分自身で決定を下さずに」なんです。

そして、ここに書かれているように委員会や合議など、自分の当事者性を薄めることで責任から逃れようとするのがタイプ6的しぐさです。
他にもルールだから、規則だから、前例があるから、他の党だってやっているから、みんなそうだよ、と自分の責任を避ける行動を取りたがります。

極端に党派的かつ権威主義的であり、他者を「自分に従う」人と「自分に逆らう」人とに厳密に分ける。すべての人が、われわれ対彼ら、部外者対部内者、友人対敵というように遠慮会釈なく二つの分岐にくくられる。「良くも悪くも私の国(権威、指導者、信念)だ」というのが彼らの態度である。誰かが彼らの信念に異議を唱えれば、自分の生き方そのものへの攻撃とみなす。

たぶん、このツイートに対しての批判が起これば、上のようになっていくことが予想されます。

ツイート主は、自分はタイプ6ではないと言うかも知れません。
ですがタイプ6日本人の一員ではあります。
日本はエニアグラムのタイプ6の国と言われているので、タイプ6な日本人としてどのレベルにあるかという見方をしていくことも重要です。
そういった見方をした場合、決してレベルの高い行動ではないのですよね。
とは言いつつ、この行動は通常レベルのタイプ6の行動ではあります。


エニアグラムにおいて、通常レベルの各タイプなんてタイプは違えど大同小異このようなものではあります。
みんなそれぞれ一長一短だということです。

この前書いた「京都の嫌味」だって、決してレベルの高い行為でもありませんよね。そういうことです。通常のタイプは一長一短なのです。

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