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10億あったら何をしたい?

と、先日スタートアップスタジオの方に問われた。

すぐに答えが出なかった僕は、それから調べ物をしたり、人と話したり、遊んだりしながら一週間を過ごしている。

なお、これは「お金持ちになったら何をしたい?」という問いではなく、「もし予算が潤沢にあったらどんなサービスを世に出したいか?」という問いである。

これがなかなか・・・簡単なようでムズカシイ。

アイデアなんて無数にある。少なくとも、そう思っていた。でも、「じゃあ具体的に自分がどんなサービスを立ち上げたいか一つ選んで、それについて語れ」と言われると、ぐぬぬ・・・ってなる自分がいた。

要するに、イメージングの解像度が低いのだ。まだ勉強不足で、自信がなく、意志が弱い。情けない僕は、俯いて膝を打つしかできなかった。

で、それから考えていることを、自分で整理するために文章にしてみる。

僕がしたいのはエンタメ領域の、非対称性を解消するサービスだ。で、中でもIPにまつわる「応援消費」や「推し活」の領域に関心がある。理由は2つあって、ひとつは僕自信が重度の音楽オタクだったことと、もうひとつはこれまでのキャリアがどれも「自己実現」や「自己表現」に関わることだったこと。(仔細は割愛)

かつて音楽に夢中になった自分を、もっと肯定したい。
好きなものがあることを、より幸福な状態にしたい。

と、今は考えている。

とすると、顧客は一般の個人。だから、エンタメ企業やクリエイターをサポートするサービスというよりも、消費者をエンパワーし、結果的に業界がエンパワーされるようなサービスを作りたい。好きなコンテンツがあるファンがより喜び、経済が活性化し、コンテンツ側も喜べるようなサービス。

・・・じゃあそもそもファンって、何だろう?

ファン〘名〙 (fan) 熱心な愛好者。実際に自分がするのではなく、それらを見たり聞いたりすることが好きな人。また、ある特定の人物を熱烈に支持する人。

コトバンクより

うーん・・・それはそうなんだけど、なんか、もう少し。

それから「ファンとは何か」を考え始め、腹落ちするまでにはだいぶ時間がかかった。

で、結論から言うと、ファンとは「特定の何かに自己投影することによる、反射的な他者への自己表現」だと僕は考えている。言い換えると、特定の何かを愛することで、自分自身を拡張する行為だ。

例えば好きなアーティストの音楽を聴くことは、表層的にはそのアーティストを愛でるための一方的で自己完結的な行為に見えるが、実はそうではない。「そのアーティストが好き」という事実を他者や世界に対して発信、あるいは宣言するための、全方位的で社会的な行動なのである。

そして「推し活」や「応援消費」というのは、"自分ができないことを代理に達成する特定の何かを応援することで、自分自身が達成する"という消費活動だと説明できる。ただ闇雲に「カッケェ!」「尊い!」と思った対象を愛でるのではなく、その対象の物語に自分自身を投影し、実際的に介在させ、達成を自分ゴト化するのである。だから推しが大きな何かを成し遂げた時に嬉しいのは、推しが嬉しいから嬉しいのではなく、自分が嬉しいから嬉しいのだ。

これはあるいは、息子がかわいい彼女を家に連れてきた時に母ちゃんが謎にホクホクするあの現象と本質的には一緒な気がする。(え?違う?)

少し、角度を変えて掘り下げる。

2022年にアメリカで生まれた「Sidechat」という匿名SNSアプリが、大学生を中心に広まっていた。しかし、中で政治的なヘイトスピーチが横行していることが問題になっていると記事になっていた。

以前にもYik Yakという近しいサービス(TikTokじゃないよ)があり、そのサービスは匿名性から生まれる醜悪な投稿が多かったとのことで、2017年にはサービスを停止する事件となった。ちなみに、Yik Yakはその後に復活するも、2023年にはSidechatに買収された。

で、この記事を見て思ったのは、ファンと匿名性の相関について、だった。

ファンとは、社会的な行為だ。「俺はこれが好きなんだぜ」って世の中に表明する行動だ。しかし一方、秘匿的な側面もある。「俺はこれが好きなんだぜ。って本当は言いたいけど、実際はそうはしない」という気持ちもある。僕自身、誰にも構わず自分の"好き"を語ったり、周りにそう知られたいという思いはなく、むしろそうじゃないように見せている節がある。30歳の社会人然とした大人が、いい年してアメリカのドリル・ミュージック聴きまくってるとか言うの、恥ずかしいもん。(少なくとも僕を取り巻く小社会ではという意味)

かつての「オタク」とか、あの後ろ指を差される感じって、あるじゃん。今でも「痛バ」とかさ。語弊があるのを承知で言うと、渋谷を歩いていてあまりに特異な服装している人いると、もちろん否定は全然しないけど、ちょっと「おぉ…」ってなる。

”好き”が深いと、それがマイノリティであればあるほど、そう公言しにくいというジレンマ。実際、僕の周りの推し活ガチ勢はSNSは絶対別アカだし、人間関係もバッサリ切り分けてる。僕もそう。音楽の文化的背景が近い人にはそういう文脈の会話をするし、職場の人とかの前だと全く別の自分。そりゃあそうだよね。地元の幼馴染と、会社の同僚とじゃキャラ違うもんね、誰だって。

これはあるいは、日本人の自己肯定感の低さから来ているのか。

ちなみに、個人的には日本人は「自己肯定感が低い」のではなく「メタ認知力が高い」のだと考えている。要するに、空気が読め過ぎるってこと。社会全体がどういう感じで、この空間は誰がどんな風な関係で、自分はどういう位置なのか、の理解度が高い。更にその関係性をいくつも保持し、並列的に切り替えることができる。で、そういう俯瞰的な感覚が創作などにおける繊細さや情感、奥行きに繋がっているんじゃないか、とも思ったりする。(が、話が逸れるので割愛)

ともすると、ファン活動には「匿名性」や「心理的安全性」というのが結構大事なんじゃないだろうか。

例えば10億ここにあったなら、絶対に誰にも自分の"好き"を否定されない、周りには自分と同じものを好きな人しかいない、そんな世界観のサービスがあったら面白いかも。

(いやでも、ドルオタガチ勢のいがみ合いって結構凄いらしいからな・・・どうなんだろ)

とにかく、いかにファン自身を達成させるか、が今後のこの領域の本質な気がする。

もう少し、考えてみます。


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