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5月1日から銀座月光荘画室1・B1にて「二つの都からー東京展ー」(5月7日まで開催)/杉本昌裕個展に多分行く話。

「恩師」と言ってる杉本先生の個展ですよ。
情報わかるまたはタイミング合えば行く気でいたが、
いい加減ご尊顔しに行こうと思う今日この頃。
数年前は遭遇しなかったんだよな、うん。

「売れたら恩師と言って」と言わたことを忘れておらんのだが、
売れないままでもワシは「恩師」と言うているけれども。
いやもう売れる気なんて20歳越えたらその気なかったよ。
あちこちの業界行ってもな!

このやる気なさがいけないとは今更ながら思っている。

ってかね、いろんな意味で恩師なのは変わらないのだ。
ワシの中で、とてつもなく。

幼少期から美術方面、まぁ舞台とか行けと言われてましたがね、
実は小・中とワシは美術にうんざりしていたのですよ。
幼稚園までの天才はどこ行った?状態ですよ。
実際その頃、他のジャンルやってたし。(文章・映像とか)

単純に成績がクッソ悪かったとも言うが、
先生と合わなかったとも言うが、マジでうんざりしていた。
もれなく漫画書いてたり、
まぁほんとに文章や映像やらの方にしか興味無くなってた。
当時しいて言えば造形と言うか、
ヤスリかけることにだけ燃えるみたいなことしかしてない。

が、高校入って杉本先生と出会って変化した。

下手なこと書くと怒られそうなんですけれども、
放置されていたとも言うんだけど、
とてつもなく自由にさせてくれていた。

普通さ、授業中に作る課題をさ、
もちろん授業中に作ってはいるんですけれども、
なんか納得行かなくて、
「持ち帰っていいっすか?」と言うて、許可してくれて、
まったく違うもの提出しても許してくれたのはでかかった。

マジで。


この頃にはもう薄々自覚はしていたんだよね。
ワシは他人がいる状態でモノを作れない、考えられない。
それでもまぁやれなくはないんだけど、
集中しきれてないから、納得いかないわけ。
自分的無難を選択していた。
でもその頃はやる気あったから、無難が許せんかったわけ。
許せんけど、他人がいる状態の限界があった。
閃くけど、真の閃きではないんだもの。

で、持ち帰って提出して、
ある意味ワシは杉本先生のウケ狙いに燃えていたんだが、
己のクラッシャー気質みたいなのがしみじみとわかった。
わかったことはでかいわけよ。
ゆえに「恩師」でしかないわけです。

だが、おかん他界とかでだな、
ワシ、美大失敗したからな、
通信とかやってはみたもののやはり他人がいるの無理で、
さらに闇ってきたから、
おかんの遺志でもありつつ、
自分がやってた表現まとめるのに空間かな…なのもあり、
演劇に行ってみたものの、
もれなくいろんな人に止められましたけど、
やっぱりワシは他人がいること、
共同作業と言うのが苦手なのを思い知ってミスったんすけど。

素直に美術オンリーに絞るべきだったのか!

という永遠の問いがあるんですけれどもさ、
歳食ってそれなりなところはあるけれども、
どうなんですかねぇ…と思いつつ、
挑戦と言うか、
何事も手あたり次第なとこは自覚してて、
それはそれでどうなの?と思いつつも、
そういう方向にさせてもらった影響はでかいわけよ。
ま、無駄に器用貧乏になってるからいいっちゃいいんでないのかしらね。

ということで、
多分、ご尊顔に行くのである。


まぁね、出会いってわかんないよねーというオチ。


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