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第一章 我は名無しである(弐)

「どげんしたとね? 狐につままれたごつ顔しとるばい」
「あ、いや。ちょっと疲れとるんかな。さっき、ここに子供がおったっちゃけど。もしかしたら、本当に狐やったんかな」
「ははは、そうかもしれんたいね。あぁ、昼ごろに組合のほうに顔ば出すって、お父さんに言っとって」
「うん、分かった」

 坂本は参拝を済ませてから帰っていったが、その間もずっと、壱弥の隣にいる子供の姿に気がつくことはなかった。

「ふむ、やはり我の姿は見えぬようじゃのう。本来そのはずなのじゃ。なぜか、お主には見えておるようであるが」
「そんな、俺にしか見えとらんって」
「そうじゃな。我も不思議じゃ。お主は、本当にヒトなのかのう?」

 突然、子供が壱弥の目の高さまで浮き上がってきた。やはりそこにはなんの仕掛けもなく、完全に宙に浮いているように見える。
 子供は壱弥の周りをぐるりと一周したあと、正面からじっと顔を見つめてきた。大きな緑の瞳の中に、自分の顔が映っている。

 それがふいに、十年前に亡くなった曾祖父の姿へと変わった。すると突然、曾祖父と一緒に毎日この神社に来ていたころのことが脳裏に蘇る。
 
 じいちゃん、神様は見えんって言いよったやん。

 壱弥が心の中で話しかけると、子供の瞳に映る曾祖父は微笑んで消えていった。

「ふーむ……カツキイチヤか。お主には、なにかしら感ずるところがあるのう。よし、我はお主とともにゆくぞ」
「ともにゆく?」
「立派な神になるためには、ヒトを知らねばならぬ。いまはそのための期間なのじゃ。お主のそばには、ヒトがたくさんおるのが見えたぞ」

 相変わらず、なにを言っているのか壱弥にはよく分からない。

「もしかして、うちに来るってことか?」
「そうじゃ」
「ダメに決まっているだろ。大体、俺は来月末までしかこっちにいないんだぞ」
「案ずるな、食費はかからぬ。ただ、たまに味見はしたいぞ」
「そうじゃなくて」
「寝る場所もいらぬぞ。ただ、かの有名なフトンというものの魔力は確認しておきたいぞ」
「だから、そういう心配をしているわけじゃなくて」

 そう返したものの、壱弥にはなかば諦めに似た気持ちがこみ上げていた。
 信じられない出来事の連続だが、実際に目の前で起こっているのだから、受け入れるほかない。

 それに、そうしろと曾祖父が言っているような気もした。

「……お前、名前は?」

 ため息まじりに尋ねると、子供は着地して腰に手を当てた。

「我は名無しである」
「ナナシ? 変な名前だな」
「名無し、つまり名がないのじゃっ。我の名は、千年神幸祭で授けられるのじゃ」
「神幸祭って、この神社で毎年やっているあれか?」

 この神社では毎年九月中旬に、産土神に感謝を伝えるための祭りがおこなわれている。壱弥も、物心つく前から参加していた。

「そうじゃ。今年は千年に一度の特別な祭りなのであるぞ」
「祭りのときに名前を授けられるって……祭りの日までは、名前がないのか?」
「うむ。名を授かることで、真の神となるのである」
「でもそれまで名前がないなんて、不便だな」
「そのまま、名無しと呼べばよかろう」
「ナナシ……」

 呼んでみると、妙にしっくりくる気がする。そしてなぜか、懐かしさに似たものを感じた。

「なんじゃ、イチヤ」
「いや、呼べって言ったけん」

 ナナシは壱弥を見つめたあと、嬉しそうに頷いた。

「というわけで、家に帰るぞ、イチヤ」
「いや、まだ走っとる途中やけん」
「なんじゃと?」
「あと十キロ」
「なんじゃとぉ?」

 ナナシが顔を歪ませる。本人は神様だというが、壱弥には、少し生意気な普通の子供にしか見えなかった。

「ついてくるって言ったっちゃけん、ちゃんとついてこいよ」

 言い終わらないうちに、壱弥は階段を駆け下りはじめた。
 空は、雲ひとつない。今日も暑くなりそうだ。そしてなんとなく、空の青がいつもより濃いように感じた。

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