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新たな部落問題の課題(1)

『福音と世界』(新教出版社)3月号「特集=部落解放ー歴史と可能性」に、黒川みどり「人種主義としての部落差別」が掲載されている。他にも、藤野豊「部落問題をめぐる差別の連鎖」、友常勉「部落解放にかかわる五つの論点」など部落問題に関する最新の動向と研究成果の一端が示されていて、興味深かった。
黒川みどり氏の論考の後半に、「同和対策」「同和教育」が「人権」に「置きかえられていった」ことによる新たな課題が「人種問題」の視点から考察されている。

この問題に関しては、施策や方針の転換をその渦中を体験した当事者として痛感している。今までも幾度か拙文にて問題視してきたことではあるが、黒川氏の論考をもとに、あらためてその問題点と今後のへの危機感を提起しておきたい。

…「人権」への変更は、部落問題を他の人権問題との関わりのなかで考えるという“開かれた”視野を持つことをも意味しており、それ自体は重要なことにちがいない。しかし同時にそれは、部落問題の“人権一般”への流し込み、あるいは解消になりかねず、かねてから部落問題を避けて通りたいと思ってきた人たちが自らを正当化するための方便になるとしたら、重大な問題をはらんでいるといわなければならない。
 現実それを奇貨として、学校教育や人権啓発の場において、人権問題のなかで対応するというたてまえのもと、長い歴史をもちながらも理解の難しく“やっかいな”部落問題が避けられてしまっている場合が少ない。

黒川みどり「人種主義としての部落差別」

「たてまえ」をこれ幸いと理由づけにして「やっかいな」部落問題を避けていった事実を、この20年間でつぶさに見てきた。あれほどに「国の責務」だから同和教育は教育の柱だと教育方針および教育課程に位置付けてきた学校が、教育委員会やその指導下にある管理職が、僅か数年の間に手のひらを返すように見事に転換していった。一般施策への移行に伴う予算の削減により隣保館と連携していた地区学習会はなくなり、同和地区との懇談会も廃止され、同和問題に関する教員の研修会も人権問題に関する研修会と名称が替わり、いつしか学校現場から部落問題が消え去っていった。職員室から同和教育・同和問題・部落問題の言葉が消えていった。

毎年文科省や地方自治体が募集する「人権標語・人権作文」のポスターから「部落問題」の例示が消えているのを数年前に見た。何年前から消えたのか正確にはわからないが、愕然としたことだけは覚えている。
もちろん、人権教育の中心に「同和問題」(部落問題)を位置付けて、さらに他の人権問題との連携を図り、生徒の人権意識を高めるために知識及び感性を育てていこうとする学校も教師もいた。同和地区を校区に持つ学校ほど従来の教育方針と教育実践を堅持していこうと努力した。部落問題学習・部落史学習を継続していこうとする教師もいた。

反面、呪縛から解き放たれたような顔をした教師を何人も見てきた。一様に、ほっとした、それでも半信半疑のように様子を伺う素振りを見せていた。それほどに「やっかいな」部落問題であったのも事実である。
その要因はいくつも考えられるが、詳しくは後日に譲る。
運動団体からの圧力、同和地区保護者の両極端な要望、教育委員会からの指導、目に見えぬ重圧が教師の精神に重く伸し掛かっていたのも事実である。そして何よりも部落問題が「理解に難し」いからに他ならなかった。

賤称語を使った授業をした後に差別事象が起こりはしないかと、どれほど事前に教材研究や検討を行っていても戦々恐々の日々を過ごさなければならない。決して十分とは言えない専門書や指導書、先達の教育実践を参考にしながら授業案を組み立てても、果たして本当にそうなのか、歴史的に正しいのか、部落問題の本質に迫っているのか、部落差別の現実を正確に認識できているか、部落差別解消の展望を明示できるのかなど、明確な「理解」ができていると自信をもっていた教師は少なかったのではないだろうか。


「部落史の見直し」により従来の「近世政治起源説」が否定(修正)されても、新たな部落問題の要因も部落差別解消への展望も明確には示されず、社会科の教科書記述だけが改訂ごとに変わっていく。誰も彼もが不確かな中で部落問題学習や部落史学習に取り組んでいた。そんな時に突然、同和教育から人権教育への移行が告げられた。

多くの学校は、らい予防法の廃止(1996年)から国賠訴訟(1998年)へと気運を高めたハンセン病問題へと舵を切っていった。言葉は悪いが「渡りに船」であった。
部落問題とハンセン病問題を比較すれば、(一概には言えないまでも)授業は格段にしやすかった。まず、要因(原因)と歴史的経緯が明らかであった。
病原菌による病気(感染症)であり、原因が不明の時期にまちがった認識により国家(政府)や民衆が感染したくないがゆえに患者および家族に対して「排除・隔離」の差別を行った。自らの人権と人間としての尊厳を回復するために、理不尽な差別の実態に対して患者自らが立ち上がった。つまり、差別の要因(原因)と、誰が・なぜ(どうして)・どのような差別を行ってきたのか、その「まちがい」はどこにあるのか、偏見とは何か、差別意識とは何か等々の授業のテーマや展開、結論が明確であるから授業をしやすいのである。

そして何よりも、対象(元ハンセン病患者・回復者)が明確であること、差別の実態がわかりやすいことが、部落問題とのちがいであった。しかし、このことは「差別認識」の曖昧さ、「他人事」に陥りやすさ、遠い問題と錯覚しやすさに気づきにくくさせてもいる。だが、多くの教師と学校は、時流に乗って部落問題からハンセン病問題へと乗り移っていった。そして次々に「外国人問題」「LGBT」と流行を追うように人権問題の内容を変遷させていくことになる。人権問題を「包括的に」学習させるという名目の下に…。


断っておくが、すべての学校や教師が必ずしも部落問題を避けていったわけでも遠ざかったわけでもない。時の急流に飲み込まれることなく、部落差別の現実から目をそらすことなく真摯に向き合い続けてきた教師も多い。地道な教育実践を積み重ね、研究者や運動団体との連携を閉ざすことなくともに協力し合いながら同和教育の火を灯し続けて、その成果を共有している教師も少なくはない。
事実、昨年出版された『入門 山口の部落解放志』(山口県人権啓発センター編)は、現役の教師と元教師、さらに研究者と社団法人が協力して、地元山口の史料の発掘とその解説により山口の被差別部落の歴史を明らかにした好著である。山口県の教師のみならず全国の教師に向けた部落史学習の最良のテクストとなっている。


そのような20数年の歳月は、否応なしに教員の世代交代を余儀なくする。同和教育の第一線で活躍していた教師も学校現場から去り、若き教師が中心となっていく中で、同和教育の実践は過去の遺物となり、実践記録や研究集録も廃棄されていった。そして部落問題を知らないままの生徒が卒業していく。

…少なくとも首都圏の大学などでは、部落問題を対象とした授業はほとんど消え失せ、部落問題を知らないままに教員になる者が数多く生み出されている。
…若い世代ほど「同和教育」へのとり組みに消極的で、まちがったことを教えることへの不安感を抱く割合も高くなっている。教師たちが自信がないからと部落問題を避けると、学校教育で知識を授けられる機会が奪われ、さらに部落問題を知らないで大人になるーそのなかから教師も生まれる、という悪循環がつくられていく。

同上

黒川氏のこの分析と考察はまさしく「現実」である。20代から30代の教師の大半が部落問題をほとんど知らない。知っていても漠然とした教科書記述程度の断片的知識か、あるいは家族や親類からのまちがった知識か偏見に近い認識だろう。また、多くは無関係か無関心、「寝た子を起こすな」論であろう。実際、若い世代の教師から部落問題に関する話題を耳にすることはない。
さらに続けて、黒川氏は現代だからこその危惧を述べている。

問題は、そのような若者たちがひとたび部落問題に「関心」を持つと、インターネット上に氾濫するステレオタイプの差別的言説を鵜呑みにしたり、自分の親・祖父母ら近親者の差別意識を無批判に摂取していくことにある。

同上

インターネット上に氾濫する無責任な「情報」を取捨選択し正当に判断するためには、材料となる知識と明晰な視点が必要である。しかし、その「知識」が学校教育において与えられないとするならば、どうであろうか。

昨今のネット上に蔓延しているQアノンなどの陰謀説を持ち出すまでもなく、思い込みや臆測から妄想まで、さまざまな「トンデモ説」が流布しているが、部落問題に関しても同様である。

被差別部落民は「賤民」ではなかったと力説する者もいれば、江戸時代の武士身分に所属する「司法警察」であり百姓や町人を取り締まっていたと強弁する者もいる。

前提となる「視点・視角・視座」が思い込みや臆測、妄想の類いによって歪んでいれば、史料の解釈や分析・考察も大きく変わってくるだろう。歴史学の方法論から解釈学、さらに哲学まで持ち出してきても、自己流に本を読んでの解釈でしかない。本とインターネットからの「情報」で独断的な、つまり自分が思い描く「結論」に近づけるために改竄・脚色・捏造を繰り返せば、「トンデモ説」が完成する。

誇大妄想が生みだした「トンデモ説」を興味本位で何も知らない若者が読めば、安易に受け入れてしまう。破天荒な説であっても、あちらこちらの史料や文献から切り貼りして自己流解釈で味付けすれば、真実味を帯びて本当らしく見える。さらに、従来の学説を独善的な論法と扱き下ろす筆法を駆使すれば、真相らしく装うことができる。

既存の学者への辛辣な批判・非難を繰り返すことで、新説や珍説好きの若者には恰好の話題提供となる。史料からの引用にしても、批判する学者や研究者からの引用にしても、自説に都合のよい箇所のみを作為的に使用したり、引用箇所の解釈おいても歪曲・曲解したりすることで、自説の信憑を高めようとする。他説どころか著者その人の人格や人間性を攻撃することで、自説の優位性を強調する。
厚着を重ねることで恰幅をよく見せているだけのことである。上塗りを重ねた厚化粧に欺されてはいけない。それらを剥ぎ取っていくと、根拠の乏しい荒唐無稽な今にも折れそうな姿が現出する。所詮、独り善がりの自己満足でしかない「トンデモ説」に振り回されてはいけない。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。