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同和教育とは(2) 部落問題学習(2)

偏狭で独善性の強い人間ほど他者を非難しても、それが人を傷つける言動であることに気づかず、自己正当化に終始する傾向が強い。例を示すならば、<差別>ほど最適なものはない。自分はほんの些細なことであろうと他者から差別的な言動を受けると「~された」と大騒ぎをするが、相手に対してどれほど理不尽で一方的な揶揄・愚弄を弄しても、それが<差別>とさえ気づかずに平気でいる。

キリスト教に黄金律がある。有名な山上の垂訓で,イエスはこう言った。
《人からしてほしいと思うことは全て,人にもしなければなりません》
また、白銀律がある。《自分がされたくないことを人にしてはいけない》

キリスト教だけでなく同じ意味の教え(戒律)は仏教にもイスラム教にもある。牧師として人に神やイエスの教えを説きながら、当然、「山上の垂訓」も教えるのだろうが、なぜ自分の言動を振り返ることができないのだろうか。


話が逸れたが、それほどに人の心とは移ろいやすく、自分のことはわからないということである。差別も同じである。

被差別部落に生まれ育ち、きびしい部落差別の中を生き抜いてきた被差別者の思いや語りは随分と書き残されている。部落差別解消への願いは痛いほど心に迫ってくる。同様に、ハンセン病元患者たちが絶対隔離の中での辛酸の日々を書き記した手記も多い。
しかし、被差別者以外の人間が<差別と向き合うこと><被差別者に対してどのように対してきたか><自分自身の差別意識に気づいたこと>を実直に語り、書き記すことは少ないのではないだろうか。

誰もが「されたこと」(被害を受けたこと)は語りやすい。同情を引くこともできるだろう。相手を責めることもできるだろう。自分に非が向くことを回避して、大袈裟に脚色することもできるだろう。
しかし、一切の言い訳もせず、自らの内に隠してきた<差別意識>や<差別感情>、<先入観や偏見>を曝け出し、自らのあやまちを正直に認めることは希有である。

部落問題学習とは、自分を見つめ直すことができ、その自分とその周りにいる人間との関わり、仲間との関わりの中での自分のあり方、人間社会の一人としての生き方とはどういったものであるか、何が自分にとって素晴らしく、生き生きとした生き方なのかを考えることのできる学習…

自分の浅はかさ、情けなさ、自分に対してのはがゆさといったものに気づき、自分の意識を揺り起こしてくれる。

今までの偏見に操られた自分、真実を見ようとしなかった自分、自分以下を求めて満足していた自分、本当の自分を抑え殺し、周りに合わせていた主体性のない自分に気づかされていく。

自らの解放から自分自身の変革が始まり、差別とはいったい何か、差別を解消していく主体的な取り組みとは何か、自分が差別解消の主体者としてどう生きていくかを学ばせてくれる

これは、河野昭一先生の「全同教徳島大会前日の全体学習に向けた指導案」の抜粋である。
このように、<全体学習>のすばらしさは生徒だけでなく教師を変えていく。その前提は教師一人一人が自らを真摯に見つめ、自らと部落差別の関係について考え、目の前の部落の生徒に対峙し、教師として人間として何ができるかを希求し、それが教師集団に連鎖的に拡がり、学校全体が変貌したことである。


森口健司氏の「思い」を彼の著書『よろこび 第2号』より抜粋しておく。

本心より激しい怒りを持たない教師から、何度、同和教育を受けても部落差別に対して怒りを持つ生徒たちが育つわけがない。

自分がしていること、それが差別だと気づいていないから、世間というものに責任転嫁をし、醜い自分や世間をつくっている。

教師にとって部落問題学習が「教える」ことではなく、教師自身が本音を語り、自己の差別心を洗っていくという教師自身の問題であるという自覚…

私自身、今まで差別の重さをどれだけ自分のものにしてきたんだろうかと思った。子どもたちの本当の思い、本当の苦しみをどれだけわかってきたのだろうかと思った。私の心の中にある部落の子どもたちを哀れむ、労るという思いは、そのこと事態、部落の子どもたちを低いもの、弱い者、卑しいものとして差別しているんだ。

自分自身の中にある差別心を洗うような同和問題の学習ができているだろうか。私の中にある、だれかを見下げる心、だれかを踏みつける心、自分以下を求めていくような差別心を洗っていくような同和問題学習ができているだろうか。

自分がどのように部落差別の中を生き、差別してきたか、部落を恐れ、部落を忌み嫌ってきたか、最初から部落解放を願った人は本当に少ないと思う。
部落に対するマイナスの感情、それをどのように克服し、本当に部落を解放していくために教師として人間として自分をどのように変えようとしているのか、どのように変わってきたのか、そんな教師の生き方こそ一番の教材なんだ。

森口健司『よろこび 第2号』

まさしく「自問自答」である。自らの心と真摯に向き合うことは痛いほどに苦しい。逃げ出したくなるほど辛い。誰も知らないのだ、誰にもわからないのだ、だから逃げても誤魔化してもいいはずだ。中途でもいいではないか。繕うことはできるのだ。だが、自分だけはすべてを知っている。その自分が自分のいい加減さを許せないのだ。

<人間はいたわるものではなく、尊敬すべきものである>、常に心に迫ってくる『水平社宣言』の一文である。

部落で生まれ、部落で育ち、部落でくらし、運動と教育にいのちをかけて六十年
或るときは烈火の叫びとなり、或るときは草にすだく虫の声となり、或るときは鋭く差別の事実に迫り、或るときは静かに差別の矛盾を訴えた
このみちは、きびしい荊の道なれど、この道はわが生涯のつとめなり
ゆくさきは幾多迫害ありとても、この営みはわが終生の運命なり
しかして、この営みはわが生命の生きがいにして、わが生命のよろこびなり

西口敏夫氏の「よろこび」という詩の一節である。森口氏は毎年、新たな手帳の1ページに書き記すという。

彼には多くのことを教えてもらった。気づかしてもらった。人生至福の時と酒をもらった。
彼の著書を机上に積み上げ、付箋とアンダーライン、書き込みだらけのページを読むと、20年近く前の日々が鮮やかに蘇ってくる。森口健司氏には感謝の言葉しかない。

だが、自分の弱さを痛感した、悔やんでも悔やみきれないことがある。人生でこれ以上の苦さはないだろうと今も思っている。同時期にかけがえのない友人を2人、私は失ってしまった。
安易に人を信用した結果の大きな代償であった。自らの愚かな言動が多くの人を傷つけ失望させ、自らの慢心が大切な信頼を裏切ってしまった。
そのことに気づいたのは数年の後であり、取り返すこともできないほどに時は流れていた。それゆえに私は封印せざをえなかった。しかも、その時に吹き荒れていた嵐のような、見も知らぬ人間からの攻撃に対処することに精一杯であった。それから5年間に渡り(その後も続いたが)、ほぼ毎日繰り返される理不尽な攻撃に疲れ果て、転勤も重なり、いつしか同和教育(人権教育に移行してもいたが)から距離を置いていた。

今更ではあるが、同和教育とは何か、部落問題学習とは何かを自分なりに総括してみたいと思い立ち、書架の中に仕舞い込んでいた関係する書物や資料を整理している。その中で、やはり最初に手に取ったのが、私自身を救い導いてくれた森口健司氏の著書と板野中学校の実践集であった。今しばらく、これらを読み返しながら、あらためて同和教育・部落問題学習の核心と展望を整理しておきたい。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。